覚え書き:イアン・ハッキングの精神障害の哲学について

 

イアン・ハッキングが亡くなってしまいました。トロント大学の記事によると以前から健康を害していたそうで、たしかにこの10年ほど、まともなアウトプットがなかったことからうすうす予期してはいたのですが、この5月10日に亡くなってしまったとのことです。残念です。また、今回あらためて、ハッキングから学んできたことの多さを感じてもいます。

ご存じのとおり広大な領域において、しかもユニークな手法で仕事をしてきた人です。なので私はそのほんのごく一部、精神障害の哲学の領域を中心に彼から学んできたにすぎません。にもかかわらず、学んだことはとても多く、そこからまた多くの課題を得てきたと感じています。

彼の精神障害の哲学を考えるさい、二つの大きな仕事があるように感じています。ひとつは神経症周辺の仕事で、もうひとつは自閉症に関係する仕事かな、と思います。そしてこうした二つの領域のいずれにおいても、精神医学などの人間科学における知識とその対象である人間との相互作用を焦点に据えていたといえると思います。

第一の神経症周辺の仕事の中心となるのは、多重人格障害解離性同一性障害)の興隆を主題としたRewriting the Soul*1(Princeton U.P., 1995年)と、その補遺とも言え、遁走を主題としたMad  Travelers(The University of Verginia Press, 1998年;『マッド・トラベラーズ』岩波書店, 2017年)かな、と思います。いずれも身体的基盤があるとは言いがたい精神障害であり、しかも時代的地域的にローカルな流行と衰退が見られる精神障害を扱っています。こうした障害が出現する社会的な条件を、ローカルな文化と精神医学、そして人々の個的事情との関係から見出し、考察していくものと言えると思います。

前者の作品(Rewriting the Soul)は、1980年代北米における多重人格障害の症例数の急増とそれにともなうメモリー・ウォーズを対象としています。具体的には、外傷的記憶をめぐる精神医学説が、1960年代半ば以降の北米における児童虐待概念の普及と浸透を背景に、一部の人々の過去想起の資源として利用されていくこと、そしてこのことが多重人格障害の症例数の急増と、さらには過去の虐待行為をめぐる数多くの係争を引き起こすに至る事情が、明らかにされていきます。

後者(Mad Travelers)は、やはり同時期の19世紀ヨーロッパにおいて広がっていた遁走(解離性遁走)を取りあげ、これを一つの精神障害として出現させまた存続させている条件を、そのローカルな文化と精神医学説、そして遁走する個人の生活状況のなかに特定しようとしています。アルベールという名の遁走者を主題に、その症例記述とともにこうした課題を追っていくところが、とてもスリリングです。

さてところで、上記の二番目の仕事、すなわち自閉症周辺の仕事においては、多重人格障害や遁走の場合とはすこし事情が異なってきます。まずは自閉症(そしてまた統合失調症)の場合、障害に対する身体的基盤の関与が一般的に強く想定されています。したがって第一のケースのように、社会文化的な条件だけに注目して検討していくことは許されません。むしろこうした仕事が、想定される身体的原因とどのような論理的関係にあるのかをクリアしないといけないことになります。

そこでその予備的な仕事としてとても重要なものが、"Taking bad arguments seriously" という1997年にLondon Review of Booksに掲載されたエッセイ*2で、これは後に手を加えられてThe Social Construction  of  What?(Harvard U.P., 1999年;『何が社会的に構築されるのか』岩波書店, 2006年)の第4章(「狂気」)として刊行されています。ここでは、精神障害についての議論をめぐってしばしば提起されてきたジレンマ、すなわち身体的原因を持つ障害か、それとも社会的に構築された(あるいは社会に原因を持つ)障害なのかというジレンマを解消することを行っています。社会学的な説明からすると、その主要な症状とされるものが歴史的に変化してきたことを踏まえると、自閉症統合失調症は不変の身体的原因をもつ自然種ではありえず、社会的な構築物であると考える傾向があったわけです。とはいえ、こうした可変性は一方で認められつつも、しかし他方で統合失調症自閉症については身体的な基盤も否定しがたくあるわけです。こうしていま述べたジレンマが生じます。

しかしハッキングはこうしたジレンマを、H. パトナムの意味論を援用して回避しています。一方で自閉症(あるいはまた統合失調症)という語は、自然種としての身体的基盤を指示対象とするとともに、他方で、そのステレオタイプとして時代ごとに可変的な典型的症状を意味する、と考えればよいわけです。こうしてジレンマが不可避ではないことを確保し、そのうえでこのステレオタイプの可変性を、精神医学などの人間科学における知識とその対象である人間(障害をもつ当人やその家族など)との相互作用に求めていくことになります。そしてこの相互作用のなかには、身体的原因についての発見(そのようなものが仮にあったとしての話しですが)という事態そのものも含まれ、こうした発見じたいが研究と治療の対象である人間のあり様に一定の影響を与えていくと考えられるようになります。

残念なことに、1997年のエッセイで示されたこのアイデアは、2000年代から2015年までのいくつかの論考で断片的に追求されてきたにとどまります。とはいえこのアイデアは、後の研究者に引き継がれ、とても重要な研究成果を生むに至りました。なかでもGil Eyal, Brendan Hart, et al., The Autism Matrix (Polity, 2010年)、およびChloe Silverman, Understanding Autism (Princeton U.P., 2012年)は、自閉症の病因論と自閉症児家族、そして自閉症児本人との複雑な相互作用を描いているとても魅力的な研究だと思います(ちなみに、ハッキング自身も2015年には"On the ratio of science to activism in the shaping of autism"(Kendler, K.S. & Parnas, J. eds., Philosophical Issues in Psychiatry III, Oxford U.P., 2015年)という論文にて、こうした議論の要点をみずから述べています*3)。

精神障害の哲学におけるハッキングの仕事をざっと思いつくままに記してきましたが、もちろんいろいろな批判や課題はあると思います。この辺りについてはきちんとした展望を得られていないので、私じしんの関心に引き寄せて述べると、課題の中心には「相互作用」があるように思います。具体的に言えば、まずは「相互作用」の概念の不明確さ、そしてまたこの相互作用を対象にした記述の欠如——こうした二点かなと思います。

相互作用の概念の不明確さというのは、具体的に述べるとこんな感じです。人間科学における知識(たとえばその分類概念やそれに結びついた知識・信念)はおもに、その対象である人間にも入手可能になることを通じ、その存在のあり方や意図的行為のあり方に影響を及ぼしていく。たとえば新しい存在のあり方の可能性(たとえば「児童虐待者であること」とか「多重人格障害者であること」)を出現させたり、新しい意図的行為をなすこと(たとえば「虐待する」とか「人格を交代する」)を可能にさせたりというように。ただし一部には例外があって、乳幼児や認知的な障害を持つ人たちの場合、その本人たちとではなくむしろその親密な人々とのかかわりを介してこうしたことを可能にしていく。こんな風にハッキングは相互作用のことを考えています。

しかし、この最後の例外として述べたものを考えてみると、相互作用の概念には曖昧さがあります。とくに明確な自己意識が不在でも対象と相互作用し、それを変容させていくということがありうるようにも思えます。そしてさらに実際、まったく意識がなくともこうした変容を引き起こすような例は自然のなかにも多く見られるように思います。たとえば家畜動物の馴化だったりさらには品種の開発は、人間の分類と動植物の相互作用の結果と言えそうですし、先の述べた例外とどこがどう違うのかは明確ではありません。

このように考えるとハッキングの述べる相互作用の概念は不明確である——このように、古いところではMary Douglas(How Institution Thinks , Syracuse U.P, 1986年)が、また最近ではMuhammad Ali Khalidi (Natural Categories and Human Kinds , Cambridge U.P., 2013年)が、批判しています。また、これとは違った側面から、とくに精神障害に関わる相互作用の概念について、その中身にはじつは様々な関係性が含まれているのではないかとの批判を、Serife Tekin ("The Missing Self in Hacking's Looping Effects," Kincaid, H. and Sullivan, J. eds., Classifying Psychopathology, The MIT Press, 2014年)が行っています。そして実際、ハッキング自身も、のちに「相互作用する種類」の概念を放棄したことを踏まえると、こうした曖昧さを十分承知したうえで、ただし彼の関心ある主題を追っていく限りにおいて有効なものとして利用していたと考えることができるように思います。

第二に、相互作用を対象にした記述の欠如ということについては、一言で言えば、人間科学の知識とその対象である人間との相互作用とハッキングは言いながらも、その相互作用には十分な注目をしてないじゃないか、という批判になると思います。部分的には上記のTekinの批判にも重なりますが、まずはこうした批判でとても重要なのはSue Campbell, Relational Remembering (Rowman & Littlefield, 2003年)でしょう。内容はRewriting  the  Soulに対する批判で、一言で言うと多重人格障害の病因論のことを、ハッキングが思い描いていたのとは異なり、女性たちがかつて被った性暴力を共同的に想起するための有益な資源でもあった点において肯定的に評価するものです。具体的には、女性たちが被ってきた認識的不正義を克服するために、自助グループやセラピーの場においてこれらの資源が利用されてきたことを踏まえて批判がなされています。病因論が実際にどのような場において用いられ、何を可能にしてきたのかをめぐっては、実際の相互作用となっている実践のあり様をよく踏まえる必要がある——こうした批判として彼女の指摘を受け止めることができるのではないかと思います。

また、これととてもスタンスの近い批判は、Michael Lynch("Narrative hooks and paper trails," History of the Human Sciences, 8(4))によってなされています。一言で言ってしまうと、上記の多重人格障害の病因論のもたらした「記憶の政治」あるいは「記憶の戦争」というが、ハッキングは、そう表現されている係争について実際の想起の実践をほぼ注目していない(その代わりに扱っているのは、外傷的記憶の精神医学史ばかりである)。しかしこうしたセラピーや自助グループの場の特徴(たとえば記録等の在不在、裏付けの在不在等々)や、実際の想起の実践方法を特定していかないと、こうした「政治」や「戦争」がなぜ生じてくるのかは明らかにできないだろう——こういった批判です。こうした批判に対しても、ハッキングは比較的好意的に受け入れつつも、自分の関心を維持していくという態度を示しているように思います。ちなみに、リンチはこれと同じような方向性を持つ批判を次の書評においても展開しています;"The contingencies of social construction," Economy and Society, 30(2)。そしてハッキングはこうした批判への応答として次を著しています;"Between Michel Foucault and Erving Goffman," Economy and Society, 33(3)。

……と、精神障害の哲学におけるハッキングへの批判を見てきましたが、いずれにおいてもさらに掘っていくべき点はいろいろとあるようです。あとは個人的な思い出を記しておきます。ハッキングの本を自分の関心に引きつけつつ読み始めたのは1996年頃と記憶しています。きっかけは神保町の東京堂書店の洋書売り場でした。なんだか暗い怪しげな表紙の本を見つけ、手に取ってみるとRewriting the Soulというタイトルで、著者はハッキングでした。当時から『言語はなぜ哲学の問題になるのか』からとても多くを学んでいたため、さっそく買って読み始めました*4阪神淡路大震災地下鉄サリン事件を経て、当時はとても暗い時代だと個人的には感じていました。トラウマという言葉を見たり耳にする機会も多い時代でした(と書いてみて、今も同様かもと感じています)。当時の自分にとってこの本は、とくにその中心をなす第17章An indeterminancy in the pastは難しすぎたのですが、近年になってようやく何となくつかめてきたかなという感じで、せっかくだからもう少し先へと進んでみたいと感じているところです。

                     

さて。昨日(5月10日)にハッキングの訃報を聞いた後、いろいろと脱力感でモヤモヤしていたのですが、気持ちの整理がてらにここまで走り書きしてきました。ですので文章としてのまとまりが十分ではないのですが、同じ関心をお持ちの方々にもし何かお役に立てればと思って、公にしてみました。誤りや遺漏、さらにご存じのことなどがありましたら、お教えいただけるととてもうれしいです。

ちなみに、まったくの偶然ですが、最近、ハッキングのRewriting the Soulを検討する論文を刊行しました。この記事をお読みいただいてご関心を持たれた方にはお手にとっていただけますとうれしいです。

  • 浦野 茂「精神医学の概念を用いて自己を理解すること:文化的環境・行為の遡及的再記述・道徳的評価」, 佐藤貴宣・栗田季佳(編著)『障害理解のリフレクション:行為と言葉が描く<他者>と共にある世界』ちとせプレス, 241-274.
    http://chitosepress.com/books/978-4-908736-30-8/

*1:邦訳はなぜか『記憶を書きかえる』というへんてこりんなタイトルで、しかも断りなく本文と注が一部略されているという、とても残念なものとなっています。

*2:https://www.lrb.co.uk/the-paper/v19/n16/ian-hacking/taking-bad-arguments-seriously

*3:ちなみに次の拙稿は、この辺りの議論を踏まえて書いてみました;浦野 茂「「神経多様性」の戦術」『概念分析の社会学2』ナカニシヤ出版, 2016年。また、この原稿の大幅改稿版は、そのうち刊行の始まる岩波書店社会学講座の医療関係の巻で出ると思います。

*4:価格は4590円と、裏表紙に鉛筆書きされています。かつて洋書は、日本円価格が裏表紙に鉛筆書きされて売っていました、古い話で恐縮ですが。

『ジョーカー』

毒のある陰鬱な予告が気になっており、『ジョーカー』を見に近所の映画館へ行った。予想どおり、見るのが辛い作品だった。作品の善し悪しとは別に(悪くはない)、ただただ辛かった。

社会への鬱屈や被害の感情があるきっかけで社会への憎悪と暴力に反転し、それが止まらなくなっていく過程を描いている。この作品を一言で語るとすればこうなるのだろう。ただし、描かれているのが現実なのかそれとも精神障害をもつ主人公の妄想なのか、まったく不明の宙づり状態のままに作品が締めくくられている。なので、何をどう語ろうとも、じつは不毛なのかもしれない。そんな思いが何時までもつづく、後味の悪い作品である。また、精神障害精神障害者の描き方にしても、結果として偏見を強めるおそれがある点から大いに疑問の余地があると思う。

とはいえこの点はひとまずおいておき、辛いだけの映画のなかで一点だけ目を見張る場面があった。それは予告にも使われていた場面、主人公が、騒動のなかを走るタクシーに乗ったクラウン姿の赤の他人と視線を交わし、かすかに微笑む場面である。

すでに主人公はクラウン姿のままで地下鉄において殺人を行っていた。そうなってしまう責任の一端は主人公の側にもなかったわけではないが、もとはといえばその行為は自衛としてなされようとしたものだった。

けれども、その行為の最中に主人公のなかで被害の感情が憎悪へと反転していた。そしてそのような反転は、後にこの事件の報道に影響を受けてクラウン姿をした者たちが騒ぎを起こしはじめるなかで主人公が自身の感情を自覚的に社会への憎悪として受け止めていくことによって、より確実に成し遂げられていく。

被害の感情から社会への憎悪の感情へ。あるいは、自衛のための殺人から憎悪に駆られた殺人へ。主人公はそんな風に自身の感情や行為の意味を捉えなおしていく。そうした転換を印づけているのが、このタクシーに乗ったクラウン姿の者と視線を交わす場面だったように思う。

ここで主人公は、邪悪さをわずかに含んだ笑みを見せているようだ。主人公はそこに自身のあるべき姿を見つけたのかもしれない。自身のなかにため込んだ被虐的な思いをどこへ振り向けていったらよいのか、気づいたのかもしれない。

このクラウン姿の他者は(そしてまたクラウン姿の群衆は)、もとはと言えば主人公自身の行為を報じたニュースに触発されて現れてきたものだった。しかしこの社会への憎悪に燃える他者の姿のうちに、かえって主人公は自身の感情のあるべき姿を見つけ出し、そのような憎悪へと向かうようにみずから決意したのかもしれない。

かすかだけれど複雑で入り組んだ感情の揺れ動きを描いた一瞬の場面に、身震いするような思いがした。

 

 

『夜明け前――呉秀三と無名の精神障害者の100年』

先日の12月22日、『夜明け前――呉秀三と無名の精神障害者の100年』を東京工科大学蒲田キャンパスで観てきた。最初に映画の上映があり、その後に3人の登壇者(山田悠平さん・川﨑洋子さん・越智祥太さん)による映画をめぐるシンポジウムというメニュー。会場にいらしていたのは400名ぐらいだろうか。当事者や家族会とおぼしき方々など、たくさんの方々がいらしていた。

 

映画は、呉秀三らが100年前に刊行した『私宅監置の実況およびその統計的観察』のための調査が行われた時に成立していた社会状況とそれに対する呉の問題意識の展開を、彼の中欧留学の足跡だったり、精神医学史家や松沢病院の関係者の言葉を導きにして描き出したものだった。

 

映画は啓蒙的で、勉強になる作品だった。けれども他方で、そこに描かれていない事柄で、かつ本来だったら見落とすべきでなかったと思うこともあった。シンポジウムにおいて山田さんが指摘されていたこともそのことだった。

 

一つ目は、この映画が呉秀三という医師の立場と視点から組み立てられていること。映画が上記の論文刊行100年を記念したものなので、このことはじゅうぶんに理解できる。けれどもこの調査や論文が、そこで対象とされていた精神障害者やその家族、あるいは現在の精神障害者や家族から見て、どんな意味を持つ(持っていた)のだろうか。映画の主題が主題だけに、そのことの不在がとても気になる。

 

二つ目は、「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸のほかに、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」という、上記論文の有名な一文について。これは映画の中で何度も引き合いに出されていた。この一文では、精神病を持つことの不幸は疑われず、この国においてこの病気を持つことの不幸の方が強調されている。けれども本当にそうだろうか。もし精神病者に十分な治療や支援が与えられるのであれば、精神病を持つことじたいをことさら不幸であると述べて強調することもなくなるのではないか。

 

以上の二つの点からは、現在の精神障害者観における欠如をうかがい知れるように感じた。

 

 

熊谷晋一郎さんのインタビューについて

岩永直子さんによる熊谷晋一郎さんへの一連のインタビューを通して読んだ。


もちろん話の出発点に置かれているのは、杉田水脈さんの『新潮45』(2018年8月号)への寄稿原稿への批判である。けれども本当の焦点に置かれているのは、人間の価値を生産性によって評価する価値・制度・言語(優生思想)に対して私たちがどのように関わるのか、である。

ひとつの関わり方として示されているのは「ナルシスト」と呼ばれるものである。それは、生産的自己像を求めそれを演じようとする一方で、そこからずれる自己のあり方すなわち自己の非生産性への不安を絶えず抱え持たざるをえない態度、いわゆるマジョリティが無自覚に身につけているそれである。

これに対置されるのが「アクティビスト」の態度。読んで字のごとく、既存の価値・制度・言語を改めべく働きかける態度といって良いだろう。したがってそれは、ここでいう優生思想の価値と言語、それにもとづく制度を乗り越えようとする態度だろう。

読んでいてとても新鮮だったのは、こうした対比の構成であり、なかでもそのなかでのアクティビストの捉え方である。

既存の価値や制度を乗り越えるべく、これに向かって働きかける態度をアクティビストと特徴づけることはよくわかる。けれどもこのアクティビスト的態度とは、実際には自己や自身の身体に耳を澄ます受動的な(中動態的な、と言うべきなのかもしれないが)態度に結びついており、むしろここに根ざしているのだという。したがって、自身とその身体の声を羅針盤に、他者や社会のあり様を変化させる、このようなものとして、アクティビストが捉えられている。

こう整理されたとき、自己と自身の身体に耳を傾け、言葉を見つけていく当事者研究のアプローチが、既存の価値と言語、制度を乗り越えて行くアクティビズムとして捉えられるようになる。

自分としては、ここに大きな発見があった。述べられている内容のそれぞれのピースには馴染んできたつもりだったが、各ピースがこうした布置のなかに置かれたとき、それらの理解が大きく変わった。そんな発見だった。

Blues for Memo

デヴィッド・マレイの新譜を、買ってみた。
この人のアルバムについては、ジェリ・アレンとの共演や、しばしば紹介されるLoversを除けば、さほど熱心に聴いてきたわけではない。そんななか、ストリーミング・サーヴィスでたまたま耳にして気に入ったので購入した次第。
どこが気に入ったのかというと、うまく言えないけれど、テナーの音がいいこと(深く広く呼吸している様を連想するが、これは以前からの印象)と、詩人・ラッパーのソウル・ウィリアムズとの共演(何を言っているのかは聞き取れないのだけれど、とても華やかな印象)がとても自然な感じだったこと、という感じ。


ちなみに、ゲストとしていくつかの曲でジェイソン・モランがオルガンを弾いている。6曲目の中盤あたりで後ろの方でなっているオルガンが、けっこういい。

『みんなの当事者研究』出版記念シンポジウム


『みんなの当事者研究』出版記念シンポジウムに参加してきました(http://kongoshuppan.co.jp/dm/tojisha18.html)。

僕の報告は、前半は言いっぱなし聞きぱなしについて、後半はトラブル経験をめぐるアスペクト転換(トラブルを捉える枠組みの転換)の共同的実践についてでした。

参加しての最大の収穫は、最前列で皆さんのお話をうかがうことができたことです。皆さんのお話、ほんとにすごかった。そのなかでとくに、それぞれの当事者の治療・回復の歴史がきちんと語られてきていない、という上岡陽江さんの言葉が、とても強く印象に残っています。
他方、僕の報告の最大の反省点は、言いっぱなし聞きっぱなしの研究を共同で行なってきたことについて、報告することができなかったことです(そのほかにもありますが)。いつか機会を見つけ、ぜったいに報告したいと思っています。


ちなみに、今回のシンポジウムでいただいた問題提起と課題(丸括弧内)をあらためて整理すると、次のようになります。

  • 多くの当事者が、自身に生じてきた困難を言葉にできていないこと、そしてまたそのための言葉がないこと、したがってその困難が「自分の歴史」として捉えることができていないこと(……それでは、そのような言葉を作る仕掛けや道具には、どのようなものがあるのだろうか?)。
  • あるいは、そのような困難を言い表したり回復を継続するために自らのモノとしてあみ出された言葉が、専門家や非当事者研究者によって奪われ、異なる仕方で用いられてきてしまったこと(……それでは、その元々の言葉の文法(使用状況や用途、論理的帰結)はどのようなものだったのだろうか? また、その所有権を侵害して現れた新たな用法とはどのようなものであり、どのような問題をもつのだろうか?)。


と、こう整理してくると、個人についての語りを扱ったハッキングの議論が、個人的には気になってきました。ひとつは専門家による語り(Rewriting the Soul)、もうひとつは当事者による語り("Autistic Autobiography")。この議論の対照性について、整理し直してみる必要がありそうだとあらためて感じています。



臨床心理学増刊第9号―みんなの当事者研究 (臨床心理学増刊 第 9号)

臨床心理学増刊第9号―みんなの当事者研究 (臨床心理学増刊 第 9号)

「本音で話す」

一言で「本音で話す」といっても、じつはいろいろな仕方があるはずだ。
そして、自分にとってどうにも苦手なタイプの「本音で話す」仕方とはどのようなものか考えてみたい(いつか)。