『ジョーカー』

毒のある陰鬱な予告が気になっており、『ジョーカー』を見に近所の映画館へ行った。予想どおり、見るのが辛い作品だった。作品の善し悪しとは別に(悪くはない)、ただただ辛かった。

社会への鬱屈や被害の感情があるきっかけで社会への憎悪と暴力に反転し、それが止まらなくなっていく過程を描いている。この作品を一言で語るとすればこうなるのだろう。ただし、描かれているのが現実なのかそれとも精神障害をもつ主人公の妄想なのか、まったく不明の宙づり状態のままに作品が締めくくられている。なので、何をどう語ろうとも、じつは不毛なのかもしれない。そんな思いが何時までもつづく、後味の悪い作品である。また、精神障害精神障害者の描き方にしても、結果として偏見を強めるおそれがある点から大いに疑問の余地があると思う。

とはいえこの点はひとまずおいておき、辛いだけの映画のなかで一点だけ目を見張る場面があった。それは予告にも使われていた場面、主人公が、騒動のなかを走るタクシーに乗ったクラウン姿の赤の他人と視線を交わし、かすかに微笑む場面である。

すでに主人公はクラウン姿のままで地下鉄において殺人を行っていた。そうなってしまう責任の一端は主人公の側にもなかったわけではないが、もとはといえばその行為は自衛としてなされようとしたものだった。

けれども、その行為の最中に主人公のなかで被害の感情が憎悪へと反転していた。そしてそのような反転は、後にこの事件の報道に影響を受けてクラウン姿をした者たちが騒ぎを起こしはじめるなかで主人公が自身の感情を自覚的に社会への憎悪として受け止めていくことによって、より確実に成し遂げられていく。

被害の感情から社会への憎悪の感情へ。あるいは、自衛のための殺人から憎悪に駆られた殺人へ。主人公はそんな風に自身の感情や行為の意味を捉えなおしていく。そうした転換を印づけているのが、このタクシーに乗ったクラウン姿の者と視線を交わす場面だったように思う。

ここで主人公は、邪悪さをわずかに含んだ笑みを見せているようだ。主人公はそこに自身のあるべき姿を見つけたのかもしれない。自身のなかにため込んだ被虐的な思いをどこへ振り向けていったらよいのか、気づいたのかもしれない。

このクラウン姿の他者は(そしてまたクラウン姿の群衆は)、もとはと言えば主人公自身の行為を報じたニュースに触発されて現れてきたものだった。しかしこの社会への憎悪に燃える他者の姿のうちに、かえって主人公は自身の感情のあるべき姿を見つけ出し、そのような憎悪へと向かうようにみずから決意したのかもしれない。

かすかだけれど複雑で入り組んだ感情の揺れ動きを描いた一瞬の場面に、身震いするような思いがした。