language, not belief

I have wanted, in the foregoing discussion, to distinguish between the beliefs people hold and the language in which those beliefs are expressed and which makes them possible. And I have tried to undermine the seductive idea that the grammar of our language is itself the expression of a set of beliefs or theories about how the world is, which might principle be justified or refuted by an examination of how the world actually is. This temptation is hard enough to resist in the case of our own language; so much the harder when we are dealing with a language the forms of which are alien, and even perhaps repugnant, to us.

  • Winch, P., 1987, "Language, belief and relativism," Trying to Make Sense, Basil Blackwell, 206-7.

概念についての問い(信念についての問いではなく)

もしわれわれが、アザンデ族が信じている事柄という観点で彼らの妖術制度について考えるとすれば、「では、彼らが信じていることは真なのか偽なのか」という問いを招いてしまうと思われる。私はここで、この問いを招くと思われると述べた。それは実際問題、「信念」(たとえば、「他者の心に存在する信念」)と呼んでまったく問題ない事柄について、しかしつねにこうした問いを立てることができるわけではない、と私は考えているからだ。とはいえしかしこの文脈においては、議論の主題はアザンデ族の信念なのではなく、アザンデ族の概念なのであると述べた方がよいだろう。もちろん、アザンデ族の概念は彼らのもつ信念のなかで用いられ、機能する。そして、特定の文脈において彼らの持つ様々な信念を学び、またその文脈のなかでこれらの信念が彼らに対して意味することや、生活のなかにおけるそれらの信念の意義を探求することによって、アザンデ族の概念が何であるかをわれわれは学ぶことができるのである

  • Winch, P., 1970, "Comment," Borger, R. and F. Cioffi, eds., Explanation in the Behavioural Sciences, Cambridge U. P., 257.

Comment

ある人物が「妖術師などいない」と述べるのに対し、私が1964年の論文「未開社会の理解」においてこれに反対したとき、私はあのような主張を否定していたのではない。「いや、実際妖術師はいる」などと言っていたのではない。つまり、私がザンデの信念を「是認」していたとかこの人々は「明らかに正しい」と述べているとのジャーヴィーの見方は誤っているのだ。彼の見方について言えば、この人々は「明らかに誤っている」との言い方と同様に、私には理解しがたいものである。「高さというものは存在しない」と述べている高さという概念をもっていない異人は、それについてのこの人の自己理解はともかく、私たちが肯定しているある特定の命題の真理を否定しているわけではない。この人は、自分がある特定の制度についての把握を欠いているということを漏らしているのである。これに対し、私たちは、この制度の文脈のなかにおいて、こうした命題を肯定しているのである。

  • Winch, P., 1970, "Comment," Borger, R. and F. Cijoffi, eds., Explanation in the Behavioural Sciences, Cambridge U. P., 257.

道徳から見た行為者とその行為

この論点〔道徳が行為者の選択とその理由づけだけにではなく、それがなされる状況しかも行為者から見られた状況に関わっているという論点〕を表現するために、状況、状況が提起する問題、そしてその問題を論じるのに適しいタイプの理由、これらは或る何らかの視点を既に含んでいる、と私は言いたい。そして、当の状況のなかにいる行為者はそうした視点とどのように関係していると私は考えているのか、という質問に簡潔に答えなければならないとすれば、サルトルも同様に言うと思うが、行為者自身がこの視点であると言おう。とはいえ、私はこれ以上サルトルに倣うつもりはない。サルトルはここから先はひどい混乱に陥っているように私には思われる。それは、状況に対してある視点が存在しうる可能性を行為者の問題へ再び解消してしまうことはできない、という点を、彼が明確には理解していないからである。むしろこの可能性は、現行の言語、すなわち個人の発明では決してないところの言語、ここにかかっているのである――サルトルも繰り返しこのように語ってはいるが。

  • Winch, P. 1972, "Moral Integrity," Ethics and Action, Rutledge & Kegan Paul.(=1987, 奥・松本訳「道徳から見た行為者とその行為」『倫理と行為』勁草書房, 251頁.)

やろうと努めること

私の主要な論点を一般的にまとめて結論としよう。悪いことを行えば人は悪いものになる(キリストの言葉で言えば、人は「けがされる」)。このようにして人が何になるかは、人が入り込んでいる他人との複雑な関係の網の目と切り離すことができない。この網の目が、それ以後の当人の人生に対する道徳的評価として何を語れば理解可能であり、何を語れば理解不可能となるか、その限界を課している。悪いことを行おうと努めながらも失敗するとすれば、人は成功した場合になるようなものにはならず、それによってその人に対する道徳的評価の可能性も違ったものとなる。

  • Winch, P. 1972, "Trying," Ethics and Action, Rutledge & Kegan Paul.(=1987, 奥・松本訳「やろうと努めること」『倫理と行為』勁草書房, 207-8頁.)

「人間の本性」という問い

人間の本性という概念は、通常は何らかの形の「相対主義」に関連して、社会諸科学の本性や射程をめぐる議論のなかに登場する。時と場所が異なれば人間生活の諸現象には非常に多くの、しかも明らかに排他的な多様性がある、ということに直面すると、我々は、これらの諸現象に通底しそれらを統一するものなど存在するのだろうか、と問いたくなる。しかしこのように身もふたもない問い方をすれば、問は定めし曖昧で、無意味に近いものになるであろう。むしろ我々がそのつど念頭においている人間生活の諸現象それぞれの特殊性に応じて、問自身がそれぞれ異なった形式で提起されるべきであり、又おそらくそれぞれ異なった形で答えられるべきであろう。

  • Winch, P. 1972, "Human nature," Ethics and Action, Rutledge & Kegan Paul.(=1987, 奥・松本訳「人間の本性」『倫理と行為』勁草書房, 100頁.)

Convergence

ヴィヴラフォン奏者ウォーレン・ウルフ(Warren Wolf)の、この6月にリリースしたジャズ・アルバム。バックは、ベースにC. マクブライド、ピアノにB. メルドー、ギターにJ. スコフィールド。すごいですね。すごいメンツで、みなそれぞれのスタイルで演奏している。だけど、アクは強くなく清々とした印象が残る曲ばかり。出だしの颯爽とした8ビートの曲から、すこし可愛いソロの曲までの11曲。延々と聴いても聴き飽きない、久々の良いアルバム、などと思っています。

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