Franz Boas 1911
The Mind of Primitive Man,1st edtion, Macmillan.
いろいろ寄り道したせいで(なんといっても叙述が退屈なもんで)、だいたい一月かけて、ようやくさっき読了。かつて1938年刊のrivised editionを読んだことがあったが、比較しながら読んでみた。revised editionではおもに後半の方法論的議論がいくつか章として加えられていたり、最終章の題名が代わってはいるが、基本的視点は1911年とさして変わりない。
なおこの版の感想としては、それ以前に刊行された論文や移民委員会報告書の研究にもとづいているので、新しいという印象はやなり、ない。
おおざっぱに言ってしまえば、人種・言語・文化は別物だ、ということにつきる。ただしそう主張するプロセスにおいて、検討すべき点があるように思う。ひとつは焦点としての混血児身体特徴の統計的研究であり、もうひとつは発達研究である。前者において混血児の身体特徴がメンデル的な遺伝の形をとるのかそれともゴルトンの言うとおりなのかが問われており、後者においては環境による身体変化の可能性を示唆するさいに、児童の発達時期とその環境との関係についての研究が参照されている。
あと、気になる点をあげれば、家畜化domestication(たしか「人間の自己家畜化」について書かれた本があったような)、人種としての新移民&「黒人」……。
前半は基本的に既存の議論に対してネガティブな主張を対置していく。
第1章では、精神能力と人種類型(時にtypeという概念を使う)の身体的諸特徴(とりわけ頭蓋骨)との関連性の主張を、例外の存在や個体間変異の大きさにもとづいて否定し、第2章では社会環境の身体的特徴の変化に対する力を、家畜動物の変異になぞらえ、「家畜化domestication」名づけて強調する。またそれとの類比で精神的特徴の可塑性を打ち出す。
ただし3章では、遺伝の力を再確認し、また身体的特徴の遺伝様式について、ゴルトン仮説(中間親への退行・回帰)を、メンデルの仮説に依拠しながら("alternating inheritance)、批判的に検討する。その際のデータは彼が集めたインディアンの混血児のデータ。これによってゴルトンに否定的判断が下される(W. ヨハンセンにも依拠しつつ)。いずれにしても遺伝の法則を確認したということになるようなのだが、とはいえ他方でやはり類型内変異の大きさゆえ、人種間の精神的能力の差異をいうことはできない、と。そのうえで第4章はいわゆる「未開人種」の精神的能力の劣った性質といわれるものが遺伝的なものによるとは確言できないこと(あくまでもこうしたネガティブな主張に止まっている)を確認する。
後半の議論はポジティブな様相をとる。
第5章になると、「アーリア人問題」をとりあげて、人種分類と言語分類の混同をいましめる。この混同によると、いわば言語の未開性から人種の精神的特性の未開性を推論できるのだが、このふたつは別の存在だし、そもそも言語の未開性なんてこと言えない、と。こうして視点は言語と文化へと移っていき(第6章)、文化の次元における進化論を批判していくのが第7章。これも以前のメイソン批判そのまま。任意の現象(たとえば婚姻制度)について、未開〜文明の(因果的)時間軸が想定されてきたわけだが(ex. 母系〜父系〜双系)、類似現象であっても起源(原因)は多様だから、そのような時間軸を想定できない、と。んでこれに以前の議論を加えて、特定人種がその文明の状態にもとづいて優劣の判断はできないと主張される。8章では、いわゆる未開の思考と文明の思考とが、習慣という次元で作動している点で同一だと述べられ、9章はこれまでの要約。そして最後10章では、合衆国の人種問題にふれられる。第一に新移民については人種混交への否定的判断を、純粋類型などもとからなかったといさめ、第二に黒人について、黒人の精神的劣等的を奴隷制による過去との切断による社会解体ゆえと説明していく。また黒人と白人の混血については、その悪影響はむしろ純血の黒人の減少という形で現れるのだ、と指摘していく。……