fishing

報告は終わったのだが、扱ったデータがA. ポメランツの「釣りあげfishing」として、おこなわれていることにいまさら気づく。
これについて乱暴にまとめれば次のようなかんじ。それについて発言する権利が非対称的に配分されている事象があるとして、優先権を前提としつつ二次的な権利内に収まる発言をおこなっていくことで当の優先的発言をその権利を持つ者から導き出していく方法(←なんかうまく書けん)。ある犯罪に対する自白と状況証拠との関係もそうだし、感覚表出と観察可能な身体の状態についての発言との関係もそうだろう。
扱ったデータでは、痛みを訴える利用者にたいして、ある専門職が身体の計測データについて異常がないことを対照させていく。んでこうした対照が、さらに痛覚についての説明を利用者から引きだしていくかたちになっている(=ある意味で、語りを受け止めるとともに、情報のさらなる収集という機能も担っているように思える)*1


こうした点に気づかなかった点は「忘れていた」ですむ。
でも考えてみるべき点もあるように思う。どうして二次的な発言をしていくことが釣りあげの装置として利用可能なのだろうか。「釣りあげ装置」として認識可能なのはどのようにしてなのだろうか。
いや、それとも考え方が間違っているのかもしれない。たとえば「二次的な発言」をすることが、どうして「一次的な発言」を「引き出す」のだろうか、などと権利の関係と引きだし関係とを別物のように扱って問いを立てることは、適切ではないようにも思う。とすれば、両者は表裏一体と考えるべきなのだろう。そうすると、[権利の非対称性=引きだし関係]を問うことになる。しかしこの場合、具体的ないろいろなケースを扱いづらくするようにも思う...。
少し考えてみたい。また、なにかアドヴァイスがあったらお教えください。


↓会場にあった、巨大像。みんな楽しげに記念撮影してました。こういうおかしなモノって、コミュニケーションツールとしてよいですね。

*1:なお、こうした「釣りあげ」の利用を、次の論文は応用的にうまーく分析していました。秋葉昌樹1999「保健室のエスノメソドロジー」『会話分析への招待』世界思想社, 173-195. この論文には、実習の授業でも学生さんたちともども、お世話になったのでした。