非人間的論理と人間

生物学の哲学におけるダーウィニズム理解をおっているところだが、行き当たった文献に恵まれたせいか、論理的にダーウィニズムおよび集団思考を整理するとどのようなものになるかが、クリアになってきたように思う。変異についての態度、集団と個体(個人)についての関係などを見ても、きわめて非人間的なところは解放感すら感じさせる*1
けれども他方で、こうした論理は、私たちについてのものでもある。私たちはここに何らかの人間的な意味を見いだしてしまうことになる。そしてこの点については、この非人間的論理は語ってくれないように思う。どのようにしてこの論理は、そこに私たちが何らかの人間的意味を見いだすべく・<私たちについてのもの>として、飼い慣らされるのだろうか。

*1:ちなみにこの開放感は、集団ではなく個人!という、集団の概念の誤解にもとづいた耳にやさしいスローガンの持つ解放感とは別のものである。当たり前の話だが、多様に異なる個々人の偏差値をもってして、集団は存在しないなんてことにはならないのだから。