精神障害

少し前に、あるリーフレットに記した読書案内です。内容が普通すぎるので案内としてあまり役立たないという反省もありますが、記録として掲示しておきます(ただし、一部の誤植を改めました)。


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精神障害というと 私たちは、まずはそれを持つとされる個人の心理や身体の問題と見なし、これらの内にその原因を求めようとする。あるいはこれとは反対に、精神障害は社会によって作りあげられたものであるとの主張もかつてなされてきた。しかし、これらのいずれの見方からも見落とされてきた事実がある。それは、「誰かが精神障害をもっている」という推測や判断は、文化的に組織された日常生活状況の細部のなかにおいて、そしてそれを不可欠な背景とすることによって、はじめて成立するということである。言いかえるならば、精神障害の概念は、日常生活の組織された状況とのかかわりにおいて意味を得ているということである。こうした視点はゴッフマンによって明確に導入された【文献1, 2】。以後、精神障害について行われてきた実践学的研究は、このゴッフマンの視点を重要な導きのひとつとしながら進められてきている【文献3〜6】。またハッキングが精神障害について提起した「エコロジカル・ニッチ」というアイデアも、その射程の範囲は異なってはいるものの、こうしたゴッフマンの視点と同じ狙いをもっているように思う【文献7】。

  1. E. ゴッフマン(石黒毅訳)『アサイラム――施設被収容者の日常世界』誠信書房1984.
  2. E. ゴッフマン(丸木恵祐・本名信行)『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』誠信書房, 1980.
  3. J. Coulter, Approaches to Insanity, John Wiley, 1973.
  4. J. クルター『心の社会的構成』新曜社.
  5. H. ガーフィンケルほか(山田富秋・好井裕明山崎敬一編訳)『エスノメソドロジー――社会学的思考の解体』せりか書房、1987.
  6. ダルク研究会編著『ダルクの日々――薬物依存者たちの生活と人生』知玄舎、2013年.
  7. I. Hacking, Mad Travelers: Reflections on the reality of transient mental illness, University of Virginia Press, 1998.

社会性・社交性・ソーシャリティ

社会性があるとか、そうした能力がないといった判断基準は、どこにあるのか?


その判断は、個体と個体の出会う仕方にもとづいておこなわれるはずだろう。つまりそうした判断は、具体的な状況における関わりの仕方についてのものであるはずである。そしてその判断は、具体的状況に埋め込まれている。


したがってこの基準も、やはりその具体的状況のなかに、その状況特有の基準として、ある。そしてこの基準のあり方は、この判断がどのような状況においてなされるかによって、大きく左右される。そしてこの状況は、時間的にも空間的にも多種多様である。これまでもそうだったし、現実にそうだし、これからもそうあり続ける。


以上より、社会性をめぐる判断がもつ特徴とは、間個人性、状況性(ゆえにまた多種多様性)というものになると思う。つまり社会的(社交的、ソーシャル)かどうかは、多種多様な状況のなかに埋め込まれた多種多様な基準により、判断される。


親子の会話に参加する、通りで出会った知人とすれ違う、数学だったり体育の授業に参加する、儀式に参加する、親密な相手と身体的な関わりをもつ、赤ん坊とかかわる、認知症の高齢者とかかわる、インターネット上でメッセージを交わす……。それぞれなりに適切とされるかかわり方があるだろうし、そのなかでそれぞれの基準によって個人の社会性は判断されるだろう。


これをさらにまとめていえば、こんな感じだろう。


社会性とは社会的秩序のもつ特徴である(当たり前のこと、だけれども)。すなわち、ある個人が社会的・社交的であるかどうかは、その個人が含まれる状況のなかのひとつの特徴である。また言いかえると、社会性(の程度)の帰属じたいが、それがなされる社会的秩序の一部なのである。


以上を踏まえると、こうした事柄について考えるさいには、つぎのような態度が必要になるだろう。


社会性を、具体的な実践への参与として捉える。その判断の基準も、実践への参与の方法として捉える。したがって、社会的かどうかどうかを測る「単一の基準」などは存在しない。現実の実践の多種多様性に応じて、多種多様な参与の基準があるはずだろう。そしてかりにある特定の個人が、その基準によってこの特性を欠いていると判断されたとしても、それが当の個人の心や身体にそなわる特定の状態と一対一で対応するなどと期待することは難しい。


ここまで述べたことは、ひょっとしたらつぎのようにまとめることができるかもしれない。すなわち、「個人の性能を評価するには、それに先だって・その前提として、消すことのできない形で社会的な秩序が存在する」と。


けれどもそんなふうにまとめてしまうと、おそらくつぎのように反論が来るだろう。「しかしそれは当たり前のことだろう。聴力・視力なんだってそうだ。個体の性能を判定するには一定の社会秩序がある、それだけのことではないのか。聞くことができる。見ることができる。それと同様に、人と関わることができる。どこが違うのか!」

 
もっともな反論だと思う。たしかに検査の仕方とその結果を個人に帰属する手続きを見れば、両者は外形的には同じかもしれない。その意味においては、これらの能力は区別できないだろう。


けれどもそこで帰属される能力の特徴、その能力の性質は、だいぶ異なっているのではないだろうか。上で述べたように、社会的であることの基準は、間個人的・状況的・多種多様なのだから。煎じ詰めていえば、多種多様な多様な「できる」があるはずだろう。そして現実に私たちが知らなかったような「できる」も、この先現れてくるだろう。こうした多種多様性を念頭におけば、こうした「できる」を、個人の内部に個体にそなわる単一の能力として把握することはできないように思う。


これに対しては、たとえば「現実の生活といった曖昧なものじゃなくて、厳密な検査でわかるのだ」と考えたくもなる。でも、これについてはこう述べるべきだと思う。「そのような検査は、現実における多種多様な社会性をどの程度適切に反映しているのか」と。つまりは、現におこなわれているだろう限定されたいくつかの検査によって、こうした多種多様性を捉えられるとは、考えられないように思う。

ある会議にて

昨日、ある研究プロジェクトの全体会議に参加した。この分野でもっとも進んでいると思われる方々の様々な研究報告を、うかがった。開発中の技術や進行中の実験のアイデアを聞き、登壇者のみなさんの旺盛な探求心に感服した。


しかし基礎的な概念についてのビジョンが欠けているように思われ、この点に――そしてこの点に限り――疑問をもった。


このプロジェクトの主題のひとつは、感覚・知覚経験や社会的場面といった日常生活における様々な困難(あるいは障害)であるはずだ。しかしその知覚経験や社会的行為とは、どのような現象なのか。こうした経験や行為のあり方に対して、脳神経からとられたデータはどのような関係に位置づくのか。乳幼児と大人との相互行為を母子関係として概念化することにどの程度の適切性・有用性があるのだろうか。


おそらくこういった事柄は、このプロジェクトのもとで進められている各研究にとってみると、小さな事柄だと思う。とはいえそうした研究が、他でもなく日常生活における困難の経験やそのような経験をもっている人たちについての研究でありえるためには、こうした点について明確な理解を得ておくことは欠かせないように思う。


40年ほど前、ある社会学者が精神科医たちに対して示した問題提起は、いぜんとして十分に追究されることのないままに残っているように思う。

Hacking, 2015

  • Hacking, Ian, 2015, "On the ration of science to activism in the shaping of autism," Kendler, K. S. & J. Parnas, eds., Philosophical Issues in Psychiatry III: The Nature and Sources of Historical Change, Oxford U. P., 326-339.


この論文でハッキングは、自閉症という人間とその生活様式にかかわる種類の出現とその普及について、"p-c-a"(personally-connected to an autistic personの略語で、おもに自閉症をもつ人びとの家族を指しているが、その極には自閉症をもつ人自身がいる)による貢献の大きさに注目している。すこし誇張が入っているのかもしれないけれど、自閉症という種類の形成(shapingであって、makingではない)にあたっての科学とp-c-aの活動との貢献度の比率は1対99である、とまで彼は述べている*1


自閉症の概念とその科学的研究に対するこうしたスタンスは、C. シルヴァーマンやG. イヤルらの論点とほぼ軌を一にするもので、とくに目新しい論点はない。というよりも、この人たちの議論とハッキングの議論とを引き離すことは難しく、こうした議論のきわめて簡潔な要約となっていると言ってよいかもしれない。


ただし、その流れで最後に提示される仮説になると、話は別である。上に触れた自閉症という種類の形成に対するp-c-aによる貢献が、この人びとに遺伝的に分け持たれている目的志向的・システム化的特徴(S. バロン=コーヘンによる、極度な男性型脳の仮説)のおかげである、とまで結論部分で述べられているのだ。振り返ってみるに、"p-c-a"という新手の概念というか略語をハッキングがあえて出してきた訳も、この辺りにあるのかもしれない。ここでは、こうした呼称で呼びうる人びとに共通する上記の属性が想定されており、この属性のおかげで自閉症者やその家族による活動(権利主張や科学研究)が大きな成功を収めてきた、ということなのだろう。


たしかにもっともらしい話ではある。けれどもこれでは歴史的・社会的状況を極端に捨象した個体主義的な仮説となってしまっており、彼の議論を踏まえその歴史的・社会的細部を埋めるべく展開されてきたシルヴァーマンらによる成果を水に流してしまうような効果すら持ちかねない点で、いくぶん心配にすらなってくる。とはいえ、こうしたラフな眉唾もののコメントはいつものこと、と片付けておくのがよいのかもしれない。


Philosophical Issues in Psychiatry III: The Nature and Sources of Historical Change (International Perspectives in Philosophy and Psychiatry)

Philosophical Issues in Psychiatry III: The Nature and Sources of Historical Change (International Perspectives in Philosophy and Psychiatry)

The Autism Matrix

The Autism Matrix

Understanding Autism: Parents, Doctors, and the History of a Disorder

Understanding Autism: Parents, Doctors, and the History of a Disorder

*1:ちなみに、こうした誇張についてはこの論文に続くK. ケンドラーによるコメントにおいて諌められているのだけれど。

コミュニケーションのあまりぱっとしない能力について


最近では、「コミュニケーション能力」というものが、様々なところで求められている。たとえばこの能力は、国の教育政策のなかで大学生に求められる能力として位置づけられている。また、受験や就職活動をしようという人たちは、いやでもこの言葉を意識せざるをえないだろう。
けれども、そこで言われている「コミュニケーション能力」とか、コミュニケーションって何だろうか。健康という主題には直接に結びついてこないかもしれないけれど、こうした問いについて、少し力を抜いてちょっと考え直してみたい。そしてそうすることで、より自分らしいコミュニケーションや人との信頼関係を作りあげることができる(かもしれないが、そうでないかもしれない)。


コミュニケーション能力って?
コミュニケーション能力と言われて、どのようなものをイメージするだろうか?大学教育や就職活動、職業において必要な能力とされているコミュニケーション能力とは、たとえば人前で理路整然と説明することができたり、しっかりしたプレゼンができたりなどのように、一般に、話すこと――なかでも、あらかじめ与えられた役割として一定の内容を話すこと――が、コミュニケーション能力ということでイメージされることのように思う。
このようなイメージから抜け落ちてしまっているのは、たとえば聴くことというコミュニケーションに不可欠な行為の能力であり、とりわけ見知らぬ人どうしの会話に付きもののコミュニケーションの曖昧さ、ゆるさである。こうした能力やゆるさは、あまりパッとしないけれど、とても重要だと思う。


聴くという行為
まず、聴くという行為を考えてみたい。聴くということは積極的な行為である。それは、「聞こえている」ということとは異なる。たとえば、電車に乗っていたりすると、乗り合わせた見知らぬ他人のおしゃべりの声が聞こえてくる。けれども、それを聴いてはいない。言い換えると、相づちを打ったり、共感の合図を示したりという仕方で話し手の話を積極的に支えてやるようなことはしない。そんなことしたら、見知らぬ人は逃げていく。
反対に、日常の会話においては、このような聞き手の積極的な行為がなくては、話し手はほとんど何も話すことができない。この意味で、コミュニケーションとは、語り手と聴き手とが積極的に協力しあって組み立てられている。一方の者が語っているときには、必ずそこには聴き手が相づちや視線、頷きなどに支えられて行われている。コミュニケーション能力といったとき、こうした聴き手の能力が見落とされがちである。しかしこうした聴き手の能力というのは、日常生活においてたとえば家族や職場において信頼関係を作るために不可欠な能力だろう。


コミュニケーションの曖昧さ
つぎにコミュニケーションの曖昧さについて考えてみたい。多くのコミュニケーションの多くは、自分と相手の役割や、何がどのように、いつまで話されるべきかについて、筋書きが決まっていない。そのようなケースは、初対面の人と食堂や電車で相席するようなときに生じる。「この人は誰なのだろう?どのような話題を話すべきだろうか?どこまで踏み込んで話すべきだろうか?――そんなことに戸惑う人は多いと思う。
その戸惑いの由来は、一言で言えば、コミュニケーションの相手の価値観や知識状態についての情報の不足にある。つまり、「この相手が誰か、そしてこの相手が何を知っていて何を知っていないか」が、分からない。だから、これにあわせて、自分が何を語ったらよいのか分からない、ということである。
こうした曖昧さのなかで、私たちは曖昧ながら一歩一歩確かめるように慎重に、もじもじとしながら、言葉を交わす。例えばだれでもが話せる天気や大きな事件のようなことからやりとりを始め、そこで分かった相手についての情報(相手の価値観や知識状態)にもとづいて、新たに話題を導入する。そのような仕方で、相手との関係を徐々に近いものにしていく。
こうした曖昧さに対処しながら、相手についての理解を深め、人と関係を作っていく能力――「もじもじ力」と言ったらよいだろうか――も、見逃されがちだけれどもコミュニケーションの能力として重要だと思う。


というわけで....
あまり注目も重視もされていないけれどもコミュニケーションを行うにあたって重要と思われる能力や事柄について、触れた。これらはあまりパッとしない事柄や能力かもしれない。うん、たしかにパッとしない。けれども、これらに支えられながら日頃のコミュニケーションが成り立っていることを意識し、積極的に実践していくことも、人との安定した信頼関係を作っていくにあたって欠かせないのでは、と思っている。


....というようなことを、あるラジオ番組でボソボソと話してきた。なんとも紋切り型ではあるけれども。

治療契約:治療者と親との

  • Schopler, E., 1978, "Changing parental involvement in behavioral treatment," in Rutter, M. & E. Schopler, eds., Autism: A Reappraisal of Concepts and Treatment, Plenum Press (=丸井文男監訳『自閉症――その概念と治療に関する再検討』黎明書房, 447-456).

オペラント条件づけを〔自閉症児の行動修正に〕適用しはじめた頃は、親はほんの些細な役割しか認められていないにもかかわらず、治療計画に親が参加することは基本原理とされていた。1960年代前半には(リムランド, 1964)、自閉症というのは、病理的な家族関係からの一次的な社会的引きこもりであると、広くみなされていた。親のパーソナリティや態度の変化が子どもの改善にとって先決であると考えられていた。親は患者とみなされ治療を受けてきた。それは、パーソナリティの変化と精神病理の改善を期待されてのことである。自閉児とその親をこのように考える経験的な証拠はなかった(ラター, 1968)。その代わりそれは精神分析の理論と行政的考慮から引き出された理論的知見に基づいていた(ショップラー, 1971)。
その後の10年間に自閉児とその親の治療について、2つの重要な変化が起こってきている。ひとつは、親のあり方が障害の原因であるという考えから、親は子どもの最適な発達を促す役割を持っているという考えに変化してきている。この傾向は、親とセラピストの契約関係に反映されてきている。もうひとつは、実験的な研究方法から治療的研究方法に、行動修正技法が展開してきていることである。

このように整理したうえで、上記の契約関係を支える親についての捉え方を、I. ロヴァースのものに触れながら、次のように述べる。

従来の親―セラピストの関係においては、親は親子関係の本質的な要素を誤って解釈していると仮定され、他方専門家も、そう理解していた。この立場が変化してきているのである。行動学的な方向づけにおいては、専門家は、行動変容に関しては専門的知識を当然もっているが、親は自分の子どもについてより多くを知っているかもしれないということを認めている。専門家と親との契約関係におけるこの変化は、親・子どもに、うまく対処する能力を伸ばすのに十分な効果をもたらした。

共同治療者としての両親

  • Kanner, L., 1971, "Follow-up study of eleven autistic children," Journal of Autism and childhood Schizophrenia, 1(2), 119-45(=1978, 十亀史郎ほか訳「1943年に最初に報告された11名の自閉症児童に関する追跡調査研究」『幼児自閉症の研究』黎明書房, 177-208).

両親(とりわけ母親)が、自閉症児についての個別的知識と深い関わりゆえに共同治療者として認められ、と同時に家庭が治療の場の延長となっていく。

両親は、親―子どもという双極の一方に立つ人物としてよりもむしろ相互性の見地から取り扱われだした。すなわち、最近彼らは病因論上の被告〔culprits; 引用者〕としてではなく、またたんなる薬物の受け取り手ではなく、あるいはこうすべきである、こうすべきでないという指示を受けるものとしてではなく、積極的な意味で共同治療者と認められるようになった。