Ivan Leudar and Wes Sharrock 1999

"Essay Review: Multiplying the multiplicity: Are dissociative identity disorders 'real'?" British Journal of Psychology, 90, pp. 451-5.
多重人格障害(解離性人格障害)は発見されたのか、社会的に構築されたのか。シャロックたちは、Rewriting the Soulの17章においてハッキング自身がこうした問題にはまりこんでしまっていると受け取り、またこの点ゆえにハッキングの議論が混乱を含んでいるものと指摘している。
こうした受け取り方の拠り所になるのが、過去の行為や出来事について当時は存在しなかった概念による遡行的再記述をめぐるハッキングの態度だという。たとえば、児童虐待の概念がなかった時代における、しかし現代のこの概念があてはまる事例において、それは児童虐待と言えるのかどうか。たしかにその時代に児童虐待の概念がなかったとしたら、それを児童虐待と記述することは誤っている。けれども、そこに今日の児童虐待被害者が持つような苦痛がなかったのかなどといえるのかどうか。こう問うなかからハッキングは過去の不確定性という視点を提示していた。
しかしこの概念は、シャロックたちからすると、認識論・存在論上の問題へのハッキングの過度な荷担の証拠と映る。すなわち彼自身が、児童虐待は社会的に構築された(にせの現象)のかそれともリアルなのかという問いに、はまりこんでしまっているのだ、と。
こう見なした上で、シャロックたちは異なる見方を示す。社会的に構築されていることとリアルであることとの間に矛盾関係はないと考える。つまり、社会的に構築されているということは、任意の現象について受容されたリアリティがあるということを示すにすぎないということ。したがってこうした視点のもとでは、別段、認識論・存在論上の特定の主張(実在論とか反実在論とか)を行っているわけではないことになる。ただ現象学的な意味での「括弧入れ」以上のものではないということになる。だからそのもとでは、任意の現象をめぐる実践や係争、その成り行きをただ記述していけばよく、それを踏み越えて過去の不確定性というような認識論的・存在論的考慮は不要だということになる。まただからこそ、人文社会科学/自然科学の区別にかかわらず、この立場を適用することができるはずだ、と(この点は、年代的にいって、科学者からのバッシングを強く念頭に置いた書き方になっている)。
確かにシャロックたち自身が積極的に示している道筋はまっとうなものだと思う。ただし上記の区別についていえば、ハッキングは対象の性質によるというよりは、ループ効果の有無において区別していたと思う。そしてだからこそ過去の不確定性の議論がある(ex. 自身を被虐待者だと実際に自己記述する人びとの存在)。この点を考えると、シャロックたちは自身の枠組みにハッキングを押し込めようとしている嫌いがあるように思う。……