小宮友根2005

「「価値判断」の分析可能性について--社会学における記述と批判」『年報社会学論集』18, 241-251.
 読みながらいろいろ考えさせられた(著者からすると余計なことなのかもしれないが)。以下、的はずれかもしれないけど、それを記してみる。
 社会学の記述は、社会内の現象のすべてを客体とする記述であろうとしてきた。そうした理想は、自らの記述になお残る価値判断性を探しだし、そのことによってその記述をも自らの客体へと繰り込んでいくことによって/として、目指されてきたと言える。社会学社会学が生まれるのは、こうした過程の痕跡のようなものと言えるかもしれない。
 ちなみにだからこそ、そしてその限りで、社会学社会学はどうにも貧困なものになってきたように思うのだけれど、それは置いておいて、ともあれこうしたことは、その裏面(というかむしろ表面)として、価値判断を脱する記述というものを社会学は方法論として求めてきたということ。そしてこうした模索の出発点には、価値判断とそれを脱した社会学的な記述(の可能性)との対比がある--このように著者は、社会学の方法論的議論に付きものだった前提をまとめているように思う。
 そのうえで著者は、会話分析者E. シェグロフの言う「たんなる記述」という理念も、こうした対比を出発点としてもつものと読み取る。と同時にこの理念は、彼自身がおこなっていることを捉え損なうものであるとも判断する。そしてこうした二点を著者は「混乱」とみなし、これを次のように表現する。すなわち「自らのおこなう記述が特定の文脈のなかでもつ行為としての意味を、記述の方針次第であらかじめ定めておけると考えてしまう混乱」であると(246頁)。
 このことは逆に言えば、記述がもつ行為としての意味を、その記述の方針(記述の内的性質)のみから決定することはできないということであり(ここまではシェグロフも認めるだろう)、(さらに言えば)シェグロフの記述とて例外ではない、ということになるだろう*1
 論文はのちに、「価値判断」およびそれと対比されてきた「たんなる記述」とが、記述を一定の文脈のなかで組織していくこととしてあるという論点を、具体的には前者に焦点をあてながら、例示していくことになる。これは、ただひとつの論争を分析して見せているだけではない。いわば、記述がもつ行為としての意味を当の記述内在的に定められるとする考え方が、対象の論理としてだけでなく、方法論としても維持できないということを明示する役割が、与えられている*2
 例示の結果として論文は、「価値判断」と「たんなる記述」という二分法をもちいて方法論的な議論を組織していくことが、記述対象となる現象を狭めている結果になっていると指摘する。この部分は、もうちょっと詳しく教えてもらえるとありがたいのだが、さしあたりは社会学社会学の従来の試みにあった貧困さを具体的事例として思い浮かべると、僕としてははっきりわかるような気がした。そしてこうしたものでは<ない>社会学社会学とは、記述の組織の研究であり、逆もまた真だということになるのだろう。

*1:なお、この点をシェグロフの記述に適用する場合、どのような水準の文脈関係を著者が念頭に置いているのか、さらに聞いてみたいと思った。注3で述べられているように、会話を分析することにそなわる関係がそこに含まれていると考えてよいのだろうか

*2:こうした論の運び方は、ちょうどシェグロフの"Description in the Social Sciences I"の形と同様で、これがシェグロフの議論へのちょっとした皮肉になっている、ように思う