隠喩

Draaisma, D [1995]2000 Metaphors of Memory: A History of Ideas about the Mind, Cambridge U. P.を読んでいる。現在、19世紀後半にあたる部分。この先どうなるのかと期待しつつも、今のところはさほど啓発的でない。
なお、読みながら気になっていたのは、隠喩の研究という表題そのもの。当然、そう銘打っている以上、隠喩の範囲確定の問題をクリアしているはずなのだが、どうもその辺が不明確。また仮にそうした範囲確定を暗黙のうちにしているとすれば、それがどのような規準にもとづいてなされているのかが、やはり問われなきゃならんでしょう(この辺、教科書的ですが)。この点は、やはり記憶の隠喩を主題とすると銘打ったLaura OtisによるOrganic Memoryについても言える。
教科書風な言い方を続けれてみると:有り体に言えば、Organic Memoryを隠喩の範囲内に括りこむのは、アナクロニズムであり、そもそも問うべきなのはそうした隠喩/字義の規準なはずだろう。だから、Organic Memoryを隠喩として読むべきなのか字義的に読むべきなのかは、二次的な問題ではないのかな(と、かつてある研究会の席上である指摘してくださった方には答えたかったのですが)。
とまあ一括りした上で、なお、隠喩として見るべきポイントをこの書は示しているようだ。写真と蓄音機。この辺は、Kittler, F. [1985]1990のDiscourse Network 1800/1900, Stanford U. P. などにもありましたが。いや、ちょっと待てー、うーん、ほんとに隠喩と言い切っちゃっていいんだろうか.....。



ちなみにBGMは↓の1枚目8曲目。"Cryin' won't help you"
Both Sides of the Gun (Spkg)
Metaphors of Memory: A History of Ideas about the Mind