ウィンチェンシュタイン?

Dupré, John., 2016, Social Sicence: City Center or Leaft suburb, Philosophy of the Social Scienes, 1-17.
DOI: 10.1177/0048393116649713


ウィトゲンシュタインに依拠した社会科学論――その中心にはP. ウィンチのそれがある――について、批判的立場を示す論文(OnlineFirstを通じて入手)。著者は高名な生物学の哲学者。したがってその議論も、生物学を中心とした科学哲学的論点にもとづいている。これはもともと、英国で開催されたウィトゲンシュタインに関連する学会で報告された論文である。
末尾の注記において著者は、自分はウィトゲンシュタイン研究者じゃないけどP. ハッカーとG. ベイカーの薫陶を受けたとも述べており、ウィトゲンシュタイン的な議論としての自負もあるようだ。そしておそらくその立場から、ウィトゲンシュタイン的社会科学論を批判している。批判されるべきその社会科学論の源泉は、著者によるとウィンチの新カント派的なウィトゲンシュタインの使用法にあり、著者はこうした使用法を皮肉を込めて「ウィンチェンシュタイン(Winchenstein)」と呼んでいる。

その論点の中心にあるのは、科学的言語の多様性、つまり家族的類似性である。それは生物学からやって来る。そして社会科学の言語はそのような家族的類似性の一つに過ぎないと述べる。そして翻って言えば、これを科学から除外させるような科学観が実情に沿わない時代遅れの遺物である。そしてこうした諸科学の言語の家族的類似性にもとづきながら、しばしば指摘される社会科学の不可能性の主張を批判する。
他方、社会科学の主題が課す制約については、著者はどう考えるか。この制約とはすなわち、社会科学の対象じたいがルールを用いる存在であるということである。それが、社会科学を自然科学から区別し、ひいては前者を科学ではないとする議論の根拠とされてきた。
これについて著者は、二つの議論をしているように思う。
第一は、まず対象の特性ゆえの方法としてウィンチが対象の実践への参与挙げているのは行き過ぎだと断じた上で*1、たとえば遺伝の働きについてのホーリスティックな理解の必要性を引き合いにしながら、社会科学を科学から除外する論調を批判している。
第二は、社会科学の対象となる日常言語が、「濃い(thick)」言語であり、したがって価値中立的でありえないことに触れている。しばしば進化生物学における言語が、無自覚に倫理的に濃い概念を用いて説明を作っていることの問題に触れている。しかしこの点を認めたうえでも、それは社会科学を科学から除外するものではないとまとめているように思われる(この点の論拠が今ひとつはっきりしないのだけれども)。
というわけで個々の論点はともかくとして、この論文の結論。科学は多様であり、たとえば物理学のみならず化学、生物学(遺伝学から生態学)に連続する形で、社会科学も含まれる。そしてウィトゲンシュタインに依拠した社会科学論とくにウィンチのそれは誤っている。かなり粗いけれども、こんな感じにまとめられるように思う。

他方、読んでいて不足を感じたのは次のあたりである。
ウィンチがその著書において批判した社会科学のあり方(たとえばデュルケムやパレート)が科学でありうることをデュプレは主張している。しかしその一方で、ウィンチが積極的に提示しようとした方法――つまり日常言語的概念の用法の記述を通じての社会研究――について、著者がどう考えているのかについては、ほとんど述べられていない(あるいは上述のフィールドワーク的参与の話からわかるように、かなり雑な理解しかしていない)。ちなみに前半の主張は科学というものをどう捉えるのかの問題である。他方、後者は社会を理解するためにはなにが必要なのかという問題である(そしてそこで必要となる手続きを組み込んだ営為が科学かどうかはあまり重要ではない事柄であるように思う)。そして著者は、ほとんど前者のみを取りあげて、ウィンチを断じてしまっているように思う。この点がこの論考についての個人的な疑問である。

*1:この議論は、Winch(1958: 87f)における、規則の二重性について述べた箇所にもとづいてなされている。この箇所のウィンチの議論によると社会科学において文化人類学的フィールドワークが不可欠となるがそれは適切ではない、とデュプレは批判している。しかしウィンチはこの箇所で「実際の参与」を理解の条件としてはいない。彼はこう述べている、「社会科学者の作業は、自然科学者が同僚とともに科学的探求活動に参与することの方にむしろなぞらえられる(analogous)はずである」(87)。著者は、この「なぞらえられる」という表現を無視し、理解するためには実際に参加しなければならない、などと極めて強い主張を行っているものとして受け取ってしまっているるようだ