二つの学会報告についてのメモ

2016年7月2日より7月14日まで、ヨーロッパの3都市を訪れた。
目的は二つの学会報告で、これについては下に記す。ちなみにこの二つの学会の合間に少し時間があるのでマンチェスターを訪れ、エスノメソドロジーという研究領域において高名な研究者に研究上の助言をいただくという幸運にも恵まれた(さらに言うと、Against The Theory of Mindという著書の編者のおひとりであるIvan Leudarとパブにてお目にかかり、現在進めている翻訳についてのご協力を得るという信じられない幸運にも恵まれた)。
まずは、二つの報告の情報を記しておく。

  • 7月4日、Atypical Interaction Conference(University of South Denmark)にて報告。Shigeru Urano, Kazuo Nakamura, and Yoshifumi Mizukawa, “Accomplishing understanding via analogy: An analysis of practices of self-directed research by people with mental disabilities”

  https://sites.google.com/site/atypicalinteractionconference/

  • 7月11日、3rd ISA Forum (The University of Vienna)にて報告。Shigeru Urano, Yoshifumi Mizukawa, and Kazuo Nakamura, "Creating “Idiom of of Distress” Collaboratively:An Analysis of Practices of Self-Directed Research By People with Mental Illness"

  https://isaconf.confex.com/isaconf/forum2016/webprogram/Session5788.html



こうした二つの報告、は科学研究費補助金によって2014年より進めている研究の一部にもとづいている。二つの報告では、それぞれの学会の目的にあわせて(前者はよりインタラクションに焦点があてられており、後者は”Language on health and illness"というテーマの部会だった)、強調点を異にしているものの、両方とも、当事者研究という活動を対象としている。
当事者研究については、べてるの家で始まり、またその理念が定式化されて以降、日本や韓国などの研究会に広がっている。とはいえ、それぞれの研究会は、参加者の障害や抱える困難の内容や、設置母体などにおいて、多様である。そこで、それぞれの状況にふさわしい形で工夫しながら当事者研究活動が進められているというのが現状のようである。そして僕たちの研究は、こうした研究会のひとつに足しげく通い、その活動がどのように実践されているのかを理解しよう、というものだ。
実際には結構なボリュームの収録データを得ているのだけれど、今回の報告では、まずはこうしたデータのどのような点に注目するべきなのか、といったイントロダクションにあたるような事柄を紹介した。
具体的に言えば、上に触れたような当事者研究の理念を実際の対面的状況で実現しようとすると相当な難しさとそれに見合った工夫が必要であるよね、ということを紹介した。そのうえで、一見すると何の変哲もないようなやりとりがもっているとても重要な意味についてきちんと目を向ける意義があるよね、という示唆をつけ加えて、今後の作業に繋ぐ、という体裁の報告を行った(この辺りの内容は、この7月に刊行される『保健医療社会学論集』というジャーナルにおける医療コミュニケーション研究の特集(第27巻第1号)において、「当事者研究の社会的秩序について――経験の共同研究実践のエスノメソドロジーに向けて」という(奥歯に物の挟まったような)タイトルで掲載される予定ですので、ご関心のある方はぜひメールなどでお声かけください)。
ちなみに、ここで述べた「難しさ」の中心にあるのが、自身の経験を相互行為において語ることに含まれる難しさである。こうした事柄には、語り手の素性についての評価だったり、受け手による態度の取り方に対する規範的期待だったりと、いろいろと道徳的な含意に関わる難しさがある(この辺りの話は、知っている人は知っているはずだが、もちろんH.サックスが「経験への権利」や「経験の孤立的性格」、「防御的にデザインされた物語」といった言葉で語ってきた事柄である)。上に触れた理念はこうした難しさを乗り越えようとする理念を示している。
だけれど、それではこの理念を、この場でこのメンバーとどう実現するのか、といったことはまた別の話。いろいろなやりとりの組み立て方が必要になるし、いろいろな研究会がいろいろなスタイルを開発している。だからそれをきちんと見ていく必要があるはずだろう。



内容に踏み込んでまとめると、こんな感じの報告を、少しアクセントを変えつつも、上で記した二つの場所で報告してきたのである。いずれの学会においても、部会中やそのあとの立ち話の中で、幸運にも重要な示唆を得ることができた。その中で最大のものは、次のような指摘だった。

お前の報告は、物語り(storytelling)や物語(story)という概念を使っているが、この二つの概念は、常識的に考えてかなり規範的な制約の強い概念で、これにもとづいてお前のやっているような現象を記述していこうってのは、そのままではちょっと無理が大きいんじゃないかな。そもそも物語ってのは、はっきりしたあらすじ(plot)とオチ(punch line)を持っているもののことだ。だから普通の会話の中で物語りをするって時には、語り手は相当おっきなタスクを背負っているわけで、だからあれこれと(例えばstory prefaceなどのような)道具立てが必要になってくるじゃないのかな。

ところで、だ。こんな風に物語りがおっきなタスクを要求するからこそ、とくに道徳的にヴァルネラブルな困難を物語ることはとっても難しいんじゃないか。そしてだからこそ、それを語るための色んな道具立てが必要となるんだろ。この辺りのことはお前(つまり僕のこと)も報告しているとおりだ。それはそのとおりだ。だけれども、こうした色んな試みを呼び指すのに、また再び「物語り」という概念を使ってしまっちゃ、うまくない。むしろこれらの試みは、物語りの制約を超えて、困難を公に口にするための道具立てなんだ。つまり物語りに期待されるあらすじもオチもない、そもそも秩序づけられないいまだに自分にも訳が分からないことを、それでも口にするための道具立てなんだ。それを、ふたたび物語りって言っちゃあ、彼らのやっていることをうまく捉えられないだろ。Alcoholic Anonymousの始めた取り組み(つまりは、言いっぱなし聞きっぱなしのこと)を見ればわかるだろ、な。

こんな感じの指摘を、デニス・デイ(Dennis Day、とても有名だったアメリカのタレントと同名)さんからいただいた。たしかに現象をどう名指すかの指摘という意味でとても些細なように見えるのだけれど、現実に私たちが生活において持っている物語や物語りの概念についての内容とそれゆえの問題をきちんと踏まえた指摘だと思う。ねらいとしては僕もその通りの報告を行ったのだけれど、この点については考えが及ばなかった。その意味でとてもありがたかった。
ただ、疑問は残る。それは、上のようなやりとりを受けて、部会終了後のやりとりのなかで生じてきた。ちょっと僕は訊いてみた。

あなたの言っていることはまったくその通りだと思う。それでは、こうした物語と物語りを超えようとする試みにおいてなされている行為をあなたは何と呼んでるんだろう?

すると彼は、こう答えた。

ナラティブだよ。

うぅーん、と僕。

ストーリーとナラティブとの違いがよく分からないんだけど、その辺、どこが違うの?

すると彼はこう答えた。

ナラティブにはプロットがなくてもいいんだ。だからナラティブって呼んだ方が良い。

ふーん、ちょっとまだ理解できないんだけど、うーん、僕が訊きたかったのはストーリーを超えるものを作る行為を何と呼ぶか、なのだったけれども…。

と、ぼやく僕に向けて彼は、それはtellでいいだろ、それしかないだろ、な。と、こんな感じのニュアンスのことを彼は答えてくれた。
英語についてはふーんというしかない(彼も英語が母語ではないはずだけれども)。あえて日本語で対応する言葉を探すとすれば、「語り」なのかもしれないけど、これも、うーんとうならざるを得ない、常識的にも学問的にも色んなニュアンス(手垢とは言いたくないけれども)の染みついた言葉である。そのようなわけで、ひとまずの課題は、上記のような行為と対象を呼び指すのにふさわしい日本語の言葉を探すこととなった。
小さなことだし、あるいは僕のたんなる知識不足のせいかもしれない。けれど、まずはこの言葉を、勝手に造語しちゃったり借り物で雑に済ませちゃうのでなく、探しだし見つけ出すことから始めなければいけないかな、と感じている。そうじゃないと、社会の成員が実践し、経験している現象を記述するという当初の目的に背くことになってしまうだろうし。




追記
と、とても幸運に恵まれた対価なのか、今回の道中では結構さんざんな目にあった。ひとつはコペンハーゲン駅において財布を(おそらく)すられたこと。もうひとつは、一つ目の報告後に風邪の症状が出てきて、コペンハーゲンでは寝込んでいたこと(デンマークはとても寒かった)。そんなこともあったけど、上記の収穫があったことと、二つ目の報告までには何とか回復して新規内容を少し加味して報告できたこと、そしてウィーンにおいてストンボロー邸を見学できたことこともあり、まあ良かったのではないかと考えている(建物内部の撮影はできませんでした)。