Jeff Coulter 1991

The Grammar of Schizophrenia, in W. F. Flack, D. Miller, and M. Weimer(eds.) What is Schizophrenia?, Springer-Verlag, pp. 161-71.

Ian Hacking 1999 "Madness: Biological or Constructed?" in Social Construction of What?(Harvard U. P. )の寄り道として読んでみた。ほんらいスタンスの比較などができればいいののだけれど、うまくまとまらないので雑多なメモとして、論述の流れと印象を記しておく。

これは所収の論集の他論考へのコメントとしてなされた議論で、とはいえ基本的前提はThe Social Construction of Mind(『心の社会的構成』)の第8章(邦訳では第6章)とほぼ変わりなし。つまり精神的現象を否定するのではなく、それらを表す概念が特定領域でどうもちいられているかを分析することをとおして現象の特性を明確にする、というもの。この前提のもと、Schizophrenia(精神分裂病あるいは統合失調症、以下、統合失調症と訳しておく)の概念を対象として、分析方針があっさりと示され、これが著者の考える社会構築主義として提示される。
では具体的に、統合失調症概念については著者はどのような前提に立つのか。著者いわく、クレペリン〜ブロイラー以来の統合失調症概念(そしてそれを一部とする分類システム)が、現在、関連する領域でもちいられている目的は何であり、またその目的にたいして概念使用がどう寄与(阻害)しているのかを見るべきだ、と。ただしそのさい、概念使用の領域を一元的なものとして把握することに著者は注意を促している。むしろ実際には、臨床と調査研究というふたつの領域に大別できる(そのそれぞれもエスノメソドロジー的にいえば細分しうる)のだという。この見方から、このふたつの領域での概念使用が概観される(とはいえほとんど前者ばかり、なんだけど)。
統合失調症概念は、調査研究領域ではサンプル間の統一性などの問題ゆえその有効性が疑問視されてきており、また生物学的な病の存在との対応づけもできていないと著者はいう。ゆえにこそサービンら批判のように、統合失調症を総体として社会的な構築物=にせ者とする主張もなされてきたのだけれど、著者が言うには、こうした批判は、病をすべて身体的基盤に求め、ゆえに文脈に依存しない適用方法をすべての領域にわたって求めてしまう偏った見方である。
かわりに調査研究領域とは別に、臨床領域においては、この概念にはヒューリスティックな価値があり、またその適用基準も実際の状況のなかにおいて、それにふさわしい形で正確に行われていると著者はいう*1。そしてこうした臨床領域における実際の使用の論理を記述していくことが、著者の考える社会構築主義となる。その目的は、統合失調症がもつ特徴を明確化し、それとともに脱物象化するものだという。
他方、調査研究領域でのこの概念の使用については、著者はサービンに同意している。つまり、病因論における心身の関係についての想定が誤ったものであると。その結果こう言われる「統合失調症の「文法」のただしい適用は、DSM-III-Rにある抽象化されたものにもとづいた判断からは得られない。またその適用の実際のコンテクストに鈍感な描写からも得られない。もし物象化も概念的ニヒリズムをも避けようとするならば、生きた使用の文法を社会学的に解明することが、私たちには必要なのだ」(170)。

僕の印象はこんな感じである。まず同一概念であれ、領域ごとそれぞれにおいてその用法と合理性とを見ていくという点はわかる。そしてそのために著者は領域について調査研究領域と臨床領域というアイデアを提示してくれていた。そしてそれぞれの目的に対して、この概念がどう寄与(阻害)しているのかを見ていけばよいと。
でもここでは、概念(およびそれを一部として含む疾病分類)と各領域のもっている目的性とが、あたかも別個のもののように扱われているような感じがする。つまり各領域とその目的があらかじめ与えられていて、それにこの概念がどう寄与しているのか、と(とりわけそうしたニュアンスは162頁に明確な感じ)。んでまず、この点に引っかかった。それでいいの?という感じ。
そのうえで、著者は領域ごとに見ていけばよいと言っているんだけど、見ているのは(というより触れているのは)臨床領域における使用のみ。んでこれにもとづいて調査研究領域での理論・診断統計マニュアルが批判(というより批判をほのめか)される。この点を考えると、著者が言っている概念使用って、要するに相互行為における使用に限定されている。実際、著者の考える「社会構築主義とは、実際の生きた相互行為過程を扱うことだ」(168)って言ってるし。
んで、この点を考えると、ある意味で、統合失調症概念を相互行為的状況へと還元したいという著者の志向が見えるように思える。けどそれって著者が批判するサービンほどではないけれど、やはり話を単純化しすぎているのではないだろうか。実際、この論文では生化学的異常の可能性については驚くほど単純に話しを片づけていたし、また1979年本でも何の検討もぬきに「「分裂病」という概念を用いて一群の人びとを集めてきたとき、その人たちが、振る舞いや信念の普遍のパターンを、まして普遍の生物学的特性を示すなどと言うことは、およそありえない」って断言しちゃっているし(訳書236頁)。
別に結論にどうこう言っているわけじゃないけど、そのような話しの進め方ってありなのか?という疑問である。
話しの流れは、煎じ詰めれば実質的には、臨床領域での相互行為的使用論理に依拠しながら、それ以外の領域での用法(およびそのもとでの存在者の措定)が否定される。この話しの流れは、総体としては、実は彼が距離をとる反実在論的社会構築主義と同様に機能するものになっているのではないだろうか? もちろん議論の端々では、こうしたニュアンスが彼自身によって否定されているのは百も承知ながら、そう感じたところで、今日はおしまい。

*1:でもそれだったら、極端な話し、別にほかでもない「統合失調症」概念である必要もなく、「ムニャムニャ」概念でも良いわけで、それでほかでもない「統合失調症」概念を分析したことになるのかは疑問なのだが。