自己物語・現実・研究方法

かりに自己物語が重要な自己の現実だとしてみる。そしてまた、かりに物語ることが現実を構築することだとしてみる。そして心的苦悩はこうした構築された自己物語の有り様だ(あるいはそれに由来する)としてみる。ちなみに「自己物語」に「社会問題」を代入してみてもよい。
ところで、心的苦悩は軽々しく扱うことはできない深刻な、それも苦悩を抱えた人間にとってはおそらくは比類のない、ものであるはずである。このことは、普段の生活者としても、そしてそうした状況・生活を研究する(どのような形であれ)者としても、けっして忘れてはならないはずである。
この点を確認したうえで、こうした状況・生活じたいを研究するのに、どのような方法をとるべきなのかを考えてみる(テクニカルな側面でなく)。ちなみにここで言いたいのは、教科書的な「方法論」の問題ではない。方法論というものは、論理的なブツである。このブツは、特定の現象にどのように接近すればなにが見えてくるのかを示唆してくれる。しかしあくまでもブツである。ブツであるということは、自分の心情がどうあれ、一定の帰結を導き出し、また同時に自分の心情がどうであれ研究する者を一定の立場に立たざるをえなくしてしまう、そういったブツである。この意味で方法論は倫理論でもある(ただし、ここで言いたいのは、「だから研究者の立場性がとどうこう」といった、方法論がもつ倫理性に無自覚なくせに、フィールドから自己反省を迫られて、やはり方法論がもつ倫理性に無自覚なままに唸ってみせるときに出てくるセリフとは絶対に異なることに注意してほしい)。
この点を確認したうえで、心的苦悩の現実と自己物語とは、どう研究されるべきなのか? ちまたで言われている所に耳を傾けてみた。煎じ詰めれば自己物語はレトリックにすぎないと言われているように聞こえる。心的苦悩はレトリックの産物にすぎないと言われているように聞こえる。だって、物語の内容は、それとは独立した、別に存在する、なんらかの社会的条件によるのだと言っているわけだから。そしてその特定は、「広い視点」「科学的推論」によるのだと添えられるかもしれない。
しかしこうした考え方は、煎じ詰めれば、心的苦悩の現実は虚像だと言うことだろう。そしてここからは、方法論の倫理的含意が容易にうかがえるだろう。しかしそれで良いのか? いやそうじゃないんだ、と多くの研究者は上のような論の進め方を否定するだろう。そして心情と経験が引き合いに出される。そしてたしかにそうした内容には納得するところが大なはずである(ぼくも納得しかけた)。けれども、方法論というブツがそれに依拠する研究者に割り当てる対象への視座は、それとは反対のものとなっていることは上記からも分かるだろう。そしてまた、この点からすると、こうした社会学者は一見、社会や相互主観性といった語彙を語りつつも、実際にはとても強い独我論者なのだ(こう考えてみると、理論化は孤独な作業だとのある社会学者の定式化には同意しないがなるほど理解できる)。
というわけで、だからこそ、方法論にはきちんと理論的にこだわるべきだと思う。方法論は、どうにでも使えるただのおもちゃではないし、ましてや机上の理屈ではないことは、だれだって学部で教わったはずだろう。
ここ20年ほど(日本では10年ほど)、社会学文化人類学で倫理についてよく言及される。ただしその数多くは、調査法レベルの問いにとどまっている。つまりその背後にある理論のレベルにまでは届いていないように思われる。しかし本当にこの点について真摯な問いかけがどれほどあったのだろうか。そしてそうした真摯な問いかけを、ていのよいレッテルですべてやり過ごしてきてしまったのではないだろうか。そして残ったのは「心情」だけだったとしたら、あまりにも悲しい。そんな疑問が残った。
最後に一言。こうした社会学的な虚像指摘がもっていた覚醒力の枯渇は、ここ最近の社会変容の指標として見なされるべきなのだろうか。そうではないだろう。むしろ上記の理論的なものであるはずだ。実際かの場でお話しされていた方だって、すでに10年近くも前の書物の冒頭2頁目で指摘されていたことでもある。つまり時代の問題ではないし、対象としての社会の側の問題ではない。むしろ理論的な問題なのだと考えてみたい。そしてこの点からすると、社会の側に要因を見てしまうことは、問題転嫁なのではないかと思う。