変化を語る

変化を語ることが意味をなすためには同一性が論理的に前提となる。この同一性は、経験的に確認できる同一性ではないはずだと思う(数的同一性)。私の来歴を語るとき、その語りが意味をもつためには、この私とかつての私は<あらかじめ>同一でなければならない*1。さらに言えば、それを「先取り」と表現してしまうことはやはりこの同一性が何らかの同質性であるかのような誤解を生みかねない点で、やはりよろしくないと思う。なお、こうした同一性を、何らかの持続的対象と見なしたり、「まとまり」という何らかの質的な同一性を含意する語をもちいることも、やはりミスリーディングだと思う(ある論文を読みつつ)。

自己知と自己同一性 (双書プロブレマータ)

自己知と自己同一性 (双書プロブレマータ)

*1:たとえば、いや来歴の語り=記憶によって自分の同一性が担保されるのだと言われるかもしれないが、それは論点先取でしょう。そもそも何らかの内容が他人についての話ではなくて自己の来歴の語り=記憶と言いうるためにも現在の私とかつての私とが同一でなければならないだろうから。