自閉症の言語

Hacking, I., 2009, "Autistic autobiography," Philosophical Transactions of the Royal Society, B, 364, 1467-1473.

自閉症の経験を記述したナラティブは数多くある。当人による「内側inside」からのものの嚆矢はグランディンの自伝(『我、自閉症に生まれて』)。また家族によるものとしてはたとえばC. ムーアのものがあるし、第三者的な記述としてはO. サックスの『火星の人類学者』が有名だろう。そしてこのエッセイの主題は、こうしたナラティブが自閉症理解に対して何をなしているのか、である。つまり自閉症に対するなんらかの生物学的原因を探し出すために、あるいは言葉の向こうにある経験そのものを把握するために、こうしたナラティブに注目するのではない。

この点は大枠としては、Rewriting the Soulの枠組みと同じである。したがってこのエッセイは、次の視点も提示しているわけだ。すなわち、自閉症のナラティブは、すでに分節されてある経験を記述しているのではなく、むしろ既存の日常言語を元にしながら自閉症について考えるためのあらたな概念の用法を作り上げている、という視点である*1

そうまとめるとなーんだと目新しさはなくなるようにも思う。が、著者が注目しているのは自閉症(とくに自閉症スペクトラムのなかでも高機能ではない領域にある場合)において、他者の行為や心の直接理解が期待できない点である。そしてこうした不透明性は、自閉症を持つ人びととそうでない者双方の側に存在し、この不透明性に対し上記のナラティブは一定の役割を担っているという点が、このエッセイのポイントである。

たとえば自閉症を持つ人びとは「心の理論」を持たないと言われる。もちろんこれは「理論」の問題などではないし推論の問題でもなくて概念使用に関わる問題である*2。まあその辺の細部はともかくとしてひとまず、自閉症を持つ人は、通常はじかに把握される他者の行為や意思、信念をじかには把握することができないということになる。こうしたわけで自閉症を持つ人に対して、他者の行為や意図などを推論する方法がトレーニングされることになる。他方、同様のことは通常の概念的把握能力をもつ人びとにもあてはまる。この人びとにとり自閉症を持つ人びとは不透明な者となり、やはり推論する方法が必要になる。そして上記のナラティブはそのために用いられることになる。つまりこれらのナラティブは、自閉症を持つ人の行為や経験を理解する言語をあらたに提供しているというわけだ。

とはいえナラティブのこうした使用にはいろいろ考えるべき論点もあるという。たとえば自伝を書いてきたのは高機能自閉症をもつ人びとに限られている。この人びとの言語はそうでない人びとにはあてはまらない。いや、というよりも著者の視点からするとむしろ、そうでない人びとを理解しまた関わる方法としてふさわしくない、ということになるのかもしれない。また別の使用法としては、もちろん、自身を語るための方法として採用されていくということもあるのだろう*3

*1:もちろん古い用法も、その用法とはべつにある対象をただ描いているのではないという意味において、作り上げられたものということになるだろうが。

*2:この辺で、著者はケーラーやウィトゲンシュタインのとりくんだ問題にサラリと言及している

*3:この点について言えば、かつて発達障害関連の施設で出会った高校生のことを思い出した。その行動力で、ある訓練場面を悩み相談の場に変えてしまったり、参加者同士の自発的繋がりを作ろうと提案したり、いろいろとスタッフをあわてさせていた。もちろん自己理解への欲求も強く、障がいに関する専門書も読んでいて僕もあれこれと教えてもらったこともあった。いまとなっては連絡も取りづらいけれども、当時のメモや取材を見直してみようかとも思っている