別に出かけなくても...

毎月、発達障害者などの支援施設に出かけていって、ある訓練場面の取材と撮影をしている。これで丸4年も過ぎているのだけれど、ふとこんなことも考えてみた。
たとえば社会生活やそのなかでのわたしたちの存在について把握するための基礎概念や理論を再検討し捉えなおすためには、いちいちこのような取材と撮影を行うことが必要なのだろうか。
もちろんある訓練場面という社会がどう組み立てられているのかを知りたければそこに行くことは不可欠なはずだけど、そうでなくて例えば「障害」であるとか、「社会性」だとか「コミュニケーション能力」であるとか(その他もろもろの怪しげだったり丁寧な分析を必要とする)概念が一体何を意味しているのかなどといった再把握にとってみれば、別にそのような作業が不可欠というわけではないだろう(できればしたほうが色々と勉強になるので望ましいと思うが)。
このような目的に照らせば、むしろただテキストを読むだけでよい、というのも一つの有力な考え方だと思う。具体的には、理論的に用いられているさまざまな概念や理論をどのようにしたら有意味に読めるのかその手続きを記述していってやればよいのではないだろうか。もちろんこうした作業は、ただ字面を読んでいくというのとはとうぜん異なるし、学説を理解・解釈することとも異なるはずだし、さらにはナンセンスと批判することとも大きく異なる、と(現実的な区別の難しさは別にして)ひとまずは言える。
まあ、そんな感じで一見ナンセンスとも思えるようなテキストにつきあい、その基礎的概念が仮に意味を持つとしたらどのような前提をおいているのかという感じで有意味性の条件を確認していく。すると何が明らかになるかというと、ありきたりだがこうした概念とその有意味性を支えている非専門的な概念の連関であり、かつこういったテキストが一片となっている学問的秩序に参与するための社会的コンペテンス、ということにひとまずなるのかもしれない。

べつに新しいことをいっているわけでは全然ないけど、意外に無駄な作業(ある意味では)をしている自分にあらためて気づいたので、ちょっと記してみました(あまり整理されてませんね、すみません)。