構造化された直接性(?)

  • Leudar, I., Sharrock, W., Hayes, J., Truckle, S., 2008, Psychotherapy as a "structured immediacy" Journal of Pragmatics, 40, 863-885.

この論文の目的は、精神分析から行われる心理療法セッションにおいて行われている事柄を、その実践の内側から記述していくこと。言いかえるとそのセッションが心理療法の実践としてどのように組み立てられているかを把握することが目的であって、会話的行為として把握することが目的ではない。
こうした議論をしていくさいに、著者たちがヒントとしているのは、行為は複数の正しい記述を受けうるというオースティンやアンスコムによる論点である。発語行為がある適切な文脈ではすなわちある発語内行為となること、あるいはポンプから水をくみ出すことが、参照文脈を広げていくとすなわちある人物を殺害することであること。いずれの場合も、行為の同一性は、前提となる文脈との関わりにおいて、複数ありうる。したがって行為の同一性と文脈とは切り離せないリフレキシブな関係にあることを教えてくれる。
こうした議論は、精神分析にもとづく心理療法セッションの実践を理解する際に、どのような意味で有益なのだろうか。たとえば、学校という教師-生徒関係を連想させる状況の中で、またそのなかで様々に作業することで、この関係から離れ、セラピスト―利用者関係を作っていく仕方。またたとえば、粘土遊びという活動をさせながら、セラピストが想像的に子どもの気持ちを表現していき、またそれへの児童の反応をセラピストが定式化し受けとめていくことで、遊びを児童の気持ちを表現する機会へと変換していく仕方。
いずれの場合も、人物や活動の同一性について変換を行っていくことを通じて、セラピーの場面が喚起され、立ち上げられ、維持されていく。学校がセラピーの場へと、あるいはまた粘土遊びが児童の気持ちの表現の機会へと変換されていく。このようにして、ある理論にもとづくセラピーが作り上げられていく。
そしてこうした観察において著者たちが重視している点は、このようなセラピーという実践は、必ずやセラピーという活動やそのなかでの振る舞い方についての専門的理論的知識を用いて行われているということである。言いかえれば、たしかに順番での発話や連鎖組織などの形式的記述も可能ではあるし、それを用いていることは否定できないものの、けっしてそれに還元し得ない固有の実践だということである。「粘土遊びを通じて子どもの気持ちの表現の機会とすること」、言葉をかえれば「粘土遊び」がすなわち「子どもの気持ちの表現機会であること」とは、理論に準拠しない限り理解不可能であり、したがってそのような場を組み立てるということも実行不可能である、端的に実践不可能である(たとえそれを実行する手段が、順番での発話や連鎖組織であっても)。


ちなみに、こうした著者たちの主張は、エノンセを言語として分析する視点と対比して提示される、エノンセを出来事として分析していくフーコーの視点の視点を思い起こさせられた。連想の域を出るものではないが、引用しておく。

事実としての言説について言語の分析が提出する問いは、つねに次のようなものになる。すなわちいかなる規則によってこうしたエノンセは構築されたのか、したがっていかなる規則によって他の同様なエノンセは構築されうるのだろうか? 〔これとは異なり〕出来事としての言説の記述は、まったく別の問題を提出する。いかにしてこうした言表が現れ、他の何物もその場所を占めないのか?(Foucault, M., 1969, L'archéologie du savoir, Gallimard, 39.)


最後に、この論文と密接に関連する論文集として、次がある。この論文集の中でも、この著者たちは同様の議論を行っている。やはりセラピーについての理論など専門的な相互行為についての知識について扱っているA. ペラキラによる論文などとあわせて、この著者たちの見解は検討しておく必要があると思う。


Conversation Analysis and Psychotherapy

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