Ian Hacking, 2004

"Between Michel Foucault and Erving Goffman: Between discourse in the abstracut and face-to-face interaction," Economy and Society, 33, 277-302.
主な登場人物は、サルトルとゴフマン、フーコー
妙な取り合わせにもかかわらず表面的刺激に欠け(相変わらず)、有益な論文。足場をフーコーにおきながら人間を作り上げる諸方法を研究していくという著者イアン・ハッキングの方針にとって、使えるところをゴフマンから拾っていくという、プラグマティックな態度が基調である。

人間を作り上げる諸方法についての研究にとり焦点となるのは、自己とその経験およびそれらのあり方の選択(肢)であり、またこれらに対する制約である。たしかに道具の存在や発明、発見、身体的特質や社会的環境といった現実的制約はあろう。しかしこうした制約と、自身が何者であるのかに関して個人がおこなう選択とは、両立する。そのうえで、まただからこそ著者が焦点をあてるのは、そうした個々の選択を理解可能なものとしている諸選択肢の空間、論理的な制約である(「理解可能な一連の行為あるいは思考可能な事態についての概念図式」)。
著者がフーコーとゴフマンを相補性のもとに捉えていくのは、この制約にかんしてである。
全制施設における対面的やり取りが入所者を一定の仕方で作り上げていくことを、ゴフマンは記述する(またそこでの「ループ効果」についても)。他方、フーコーは、そのような制度的場およびそれと不可分にかかわる人間の分類の出現と変化、およびそれらの条件について記述する。ゴフマンにとって当の制度的場とそれにかかわる人間の分類の存在そのものは与件であり、そのうえでそうした分類が適用される対面的諸実践の詳細が焦点となる。他方でフーコにとりそうした詳細を還元しつつ("discourses in the abstract")、それらを可能にする人間の分類およびそれと不可分な制度の出現と変容が記述の焦点となる。
このように両者が相補的なものと把握される。曰く、「われわれに開かれている選択肢は、身近な社会的場面……と現在の歴史との交錯によって可能になっている」と。その相補性としてたとえば、ゴフマンにおいては別物として区別されていた諸全制施設について、らい施療院が非理性の監禁施設へと通じていくとの『狂気の歴史』指摘などのように、その共通性が把握されるなどの点に求められていく点がある。
こうしてゴフマンの議論を自身の方針を補完するものと位置づけた上で、ループ効果について論じていく。ゴフマンも『アサイラム』でループ効果を言っており、これとの異同を明確化している。まとめれば、ゴフマンのいうループ効果とは、監督者と入所者の反応との間での循環であり、これに分類が関連するとしても、ある分類を前提にした上での対面的な力学にかかわるもの。対して、著者のいうループ効果とは、「分類そのもの」に関係している(299)。いわば科学における人間分類とそれについての知識が、諸制度を通じて人びとの行動と形作っていく変容の円環のこと。その意味で、自身の言うループ効果が、抽象性のレベルにおいてのみ見出されるものかもしれない、とも補足している(つまりフーコー寄りということ)。
最後になるが、著者が自身とゴフマンとの異同を明言する背景には、What?本とMad Travelersに対するマイケル・リンチの書評(Economy and Society, 30(2))の存在がある。そこでリンチは、ハッキング自身がゴフマン同様、自らループ効果を作り出しているのでは?との指摘をおこなっている。しかし著者は、自身の議論は、人びとを作り上げることについての理論なのではなく、むしろ人間を作り上げる多様な方法についての記述であるとの点を、強調していく。ループ効果は歴史記述の視点であって、理論じゃないと言いたいのだろう(ということはゴフマンのループ効果はある種の人びとを作り出す理論だと判断しているのだろうが、その是非については僕では判断できない)。


とまあ、有益ではあるが、ある意味で、予想どうりの筋書き。*1
ただし、微妙な細部におもしろい言い回しがいくつもあった。そのうちのひとつ。

シカゴの社会学者たちは、ある意味で、人びとを作り上げることばかりをおこなっていたということを強調しておかなければならない(290)。

この部分、「人びとを作り上げることを<理解する>こと」とは言っていないところなんか、なかなか気が利いてますな。
Mad Travelers: Reflections on the Reality of Transient Mental Illnesses