Michael Lynch, 1995

"Narrative Hooks and Paper Trails: The Writing of Memory," History of the Human Sciences, Vol. 8, No. 4, pp. 131-143.

マイケル・リンチによる、Rewriting the Soulの書評。出版されてまもなくなされたにもかかわらず、かなり本質的な論点を提示している。以下、冬休み前最後の、暫定的覚え書き(なおこの論文については、FUKUさんもあるところで書いてまして、参考にさせていただきました。アドレスは示しませんが、見ることのできる人はご参照ください)。


論点は、イアン・ハッキングがRewriting the Soulで仮定した深層知識という概念の問題点をめぐってのもの。
ちなみに、深層知識とはこの著書の場合、記憶の科学となるが、これを背景にして、記憶回復運動をめぐる論争状況(個人的記憶の政治学)が成立しえているとハッキングは見ていた。この場合、記憶の科学は、記憶について真あるいは偽のいずれかでありうる有意味な言明をなす可能性のこととなる(下でしるすように、リンチが受け止めているような理論でもパラダイムでもないことには、注意すべきだろう)。
さて、こうした深層知識についてのリンチの論点、それはいわゆる構造論的説明について昔しばしば指摘されていた論点だ。すなわち、ハッキングによって仮定上「誰にも知られ得ないこともありうる」とされた深層知識は、現実に行われるセラピーとどう関係しているのか、という。
個人的記憶の政治学の焦点にあるのは、抑圧され、セラピーにおいて回復されたといわれる記憶だ。そして記憶のこうした回復は、セラピーという相互行為においてなされる。そしてこの点ゆえにこの記憶は、ハッキングのいう深層知識のほか、そこから派生したとは言えない常識的知識やセラピーという相互行為の実際の形式がかかわっていると、リンチは述べる。
そのうえで、記憶回復運動をめぐる論争は、こうしたセラピーの相互行為の実際の形式によるところが大きいと、リンチは論じていく。すなわち、さまざまな証言と証拠が提示され、被告と原告、弁護士と証人、判事、陪審が参与する法廷とは異なり、患者の過去は患者以外には(あるいは場合によっては、患者も含めて)「誰にも知られないこともありうる」。そこでは患者のバイオグラフィーを書き換える可能性が大きくなり、またそれゆえにこそ、その信憑性が疑問に晒される。こうして上記の論争がもたらされる。
このように、リンチは表層に注目することで記憶政治学についてのハッキングとは異なった見方を提示している。
その論点を改めて箇条書きすると、
(a)深層知識の仮定への疑問:いかなる権利で、これをハッキングが仮定できるのかが、問われている。

(b)記憶回復運動の由来をこうした深層知識に求めることへの疑問:表層/深層区別に基づくとすれば、表層と言いうる要素にその由来を求めていくリンチのアイデアが示唆されている。

さてそのうえでの、今後の論点を箇条書きすると、
(1)深層知識の概念についての、リンチの理解の是非:どうも深層知識によって、リンチはひとつの理論やパラダイムのようなものと理解しているように見受けられる*1。それはハッキングからすると、妥当ではないだろう。むしろ正しくは、記憶について科学的言明をなす可能性を指す。そしてそこにはセラピーという制度的実践それじたいも、こうした可能性に依拠するものだろう。しかしどうやら、この点をリンチは読み取っていないように僕には思われる。この点は次とかかわる。

(2)セラピーセッションという実践についての理解:リンチは自身がかつて論じたデータ*2に依拠しつつ、主に二点を提示している。第一に、常識的知識が、セラピーにおける記憶についての言明の真偽の規準として用いられている点。第二に、セラピーセッションという場面の実際的編成こそが、記憶回復運動をめぐる論争の由来となっている点。
これらはいずれも、セラピーという相互行為の内側において、ハッキングの言う深層知識とは異なった、常識的要素が介在している点を指摘するものだ。いずれも、ハッキングの議論に対して、それを否定しないまでも代替的な視点を提示している。前者は、深層知識以外の要素が記憶についての真なる言明を言う可能性として存在しているという指摘。後者は深層知識によらない、ありうる説明が存在するとの主張。
しかしこうした指摘は、そもそもセラピーという制度的実践そのものを前提にした上での議論である。セラピストが患者に記憶の真をただすというやり取りにおいては、たしかにリンチの言うように日常的な知識が用いられている。こうした知識を用いたやり取りは、ありふれたものであり、たしかに記憶の科学に由来するものではない。
しかしそうしたやり取りが、他でもない「セラピー」においてなされている、という事態は別だてで考えなければならない。言い換えれば、こうしたありふれた知識が、
   他でもない「セラピー」において、
   他でもない「セラピスト」が、
   他でもない「患者」に対して、
用いられているという点は、リンチにおいて自明視されている(ちょっとくどかったか?)。つまり、そもそもセラピーという制度的実践の存在それじたいは、リンチの議論の中では問われることのない前提になってしまっている。そしてここにこそ、記憶の科学という深層知識の説明力があるように思われる。
こうした点を考慮すると、リンチの指摘には問題を感じる。そしてこの問題は、先の(1)に再び戻ることになる。


とまあ、あれこれ書いてきた。もちろんリンチの指摘は、これをハッキングの普通種common kindの話とつきあわせて考えることもできる点で、興味深い。
けれども上で述べたように、その問題点も見えてきた。クルターについて以前に述べたときと同じ問題だ。
具体的な実践の詳細を見ていくという視点は、その具体的実践がなされる場の存在(制度的立脚点)を自明にしてそれをおこなう*3。この事例で言えば、「セラピー」という場になるし、クルターの事例で言えば「臨床」と「調査研究」という場になる。そしてこうした場そのものがいかなる位置を担っているのかについて、こうした方法では検討されていないように思うのだが、それは気のせいなのだろうか。


さて、そろそろ正月休み。温かいところにしばらく移動する予定です。それでは。

*1:"depth knowledge is ... formulated in the form of a theory, paradign, mentality of ontology"(p. 124)というように。

*2:Michael Lynch and David Bogen, 1997 "Lies, recollections and categorical judgements in testimony" in Stephen hester and Peter Eglin eds. Culture in Action, University Press of America, pp. 99-121.

*3:「いや、それは達成されるんだよ、成し遂げられるんだよ」と言う人がいるかもしれない。しかしそこで達成されるものは、その実践なり制度なりの存在の上に成立する理解だったり(たとえば「〜〜らしさ」の達成という欺瞞的主題)やその制度についての既存の構造だったり。そうした議論は、ちょこちょことコンティンジェンシーを入れつつも、しかるべくして達成されますって言うんだよね、結局。